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JAL、ロサンゼルス国際空港で東京~ロサンゼルス線60周年記念式典。歴代地上制服スタッフが対応
植木会長「この先10年は日本とロサンゼルスの結び付きが深まる」
2019年5月30日 23:00
- 2019年5月29日(現地時間)実施
JAL(日本航空)は5月29日(現地時間)、東京~ロサンゼルス線の就航60周年を祝うセレモニーを、ロサンゼルス国際空港のトム・ブラッドレー国際線ターミナルで実施した。
JALの東京~ロサンゼルス線については、成田空港で行なわれたセレモニー記事でも紹介しているとおり。
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就航当時はダグラス DC-7C型機を用いて、ホノルル経由で東京発が25時間、復路が25時間35分の旅だった。ちなみに、ロサンゼルス発の初便は1959年5月30日の土曜日。60周年セレモニーは日付としては前日となる5月29日に執り行なわれた。
JALの東京(羽田)~ロサンゼルス線(1959年就航時)
JL611/613/615便: ロサンゼルス(14時30分)発~ホノルル(20時30分)着~ホノルル(23時00分)発~東京(翌々08時05分)着、611便は月曜、613便は水曜、615便は土曜運航
JL610/612/614便: 東京(22時30分)発~ホノルル(16時40分)着~ホノルル(19時50分)発~ロサンゼルス(翌07時30分)着、610便は日曜、612便は火曜、614便は金曜運航
JALの成田~ロサンゼルス線(~2019年8月31日)
JL61便: ロサンゼルス(13時10分)発~成田(翌16時45分)着、毎日運航
JL62便: 成田(17時20分)発~ロサンゼルス(11時10分)着、毎日運航
セレモニー当日、ロサンゼルス国際空港のトム・ブラッドレー国際線ターミナルにあるJALチェックインカウンターでは搭乗口で式典があることを伝えるとともに、バルーンで装飾。さらに地上スタッフが、過去の制服を着用して旅客対応を行なうなど、お祝いムードを盛り上げた。
搭乗口は134番を使用。ゲートにはバルーンアーチが架けられたほか、琴の演奏や軽食を振る舞うなど、こちらも60周年をお祝いする雰囲気。軽食は、20年ほど前にファーストクラスの搭乗客に配布していたという当時の法被や、機内サービス時にCA(客室乗務員)が使用するエプロンを着用したスタッフも振る舞いに参加。これらの品々はロサンゼルス駐在のJALスタッフが個人で保管していたものといい、現在とは微妙に異なるJALの鶴丸デザインなどに歴史を感じることができる。
搭乗口で行なわれたセレモニーには、JAL 代表取締役会長の植木義晴氏が臨席。植木氏は60周年を迎えられたことに対して旅客や関係者に謝意を示したうえで、就航当時の様子として、「ロサンゼルス線の初便は19659年5月28日に40名のお客さまを乗せて、東京・羽田空港を出発。飛行機はDC-7というプロペラ機で、『City of Los Angels号』と名付けられた。この機は、途中給油のためにホノルルを経由し、翌5月29日にロサンゼルスに到着した。つまり所要時間は約25時間。現在の2.5倍の時間を要する長旅だった」と紹介。
さらに、運賃についても言及し、「日本ではエコノミークラスで32万円。当時のサラリーマンの平均年収が約35万円なので、一般庶民にとっていかに海外旅行が高嶺の花であったが分かると思う。アメリカのお客さまにとっては、当時の平均年収が3900ドルに対して、運賃は878ドルであり、日本の運賃とは大きく違うのが興味深い」と60年前の日米の違いも交えて紹介した。
また、植木氏はパイロット出身として知られるが、「私自身はボーイング 747-400型機の機長として、1995年から約10年間、ロサンゼルスに年2回のペースで訪れた。この空港には平行滑走路が4本あり、2本ずつが離陸、着陸に供用される。交通量が多い空港の一つで、航空管制官は息つく間もなくしゃべりっぱなし。我々パイロットも気の抜けない空港だった。ただ、到着後に最高のシーフードに舌鼓をうったことは当時、最高の幸せだった」と回想した。
セレモニー前に行なわれた植木氏への囲み取材で、パイロット視点でのロサンゼルス空港の苦労や特徴などを尋ねてみると「天気がわるくなることはほとんどなく、クロス滑走路がないことからも分かるように一定方向からしか風が吹かないので、気象的には落ち着いている。ただ、トラフィックは多いので、パイロットとしては特に離着陸のときは緊張を強いられる。パラレル滑走路へ同時進入するためには、計器飛行ではなくお互いに視認することが条件になる。着陸のとき必死になって同時に進入する飛行機を見つけて、“見えたよ”とお互いに宣言するとアプローチしてよいとなる。やっぱり気の抜けない空港だった」と話したほか、セレモニーでの触れられた航空管制についても、「航空管制は常にしゃべりっぱなしという感じで、いろいろな便名に指示が出るなかに例えばJAL61便が出てくる。これを聞き逃すと大変で、一番後ろに回されたりする」といった苦労を語った。
また、JALにとってのロサンゼルス線については、サンフランシスコ線が1951年に最初に開設した路線でJAL1便、JAL2便となっているが、「それに次ぐ路線ということで歴史ある路線。現在の日米間需要ではロサンゼルスが1番、2番がニューヨーク、3番がサンフランシスコと続くが、ロサンゼルスは2つの都市を圧倒的に引き離す大きな需要がある。いまとなっては、ロサンゼルスは米本土への最も重要な路線となっている」と位置付けた。
そうした路線だけに2020年に予定されている羽田空港の国際線発着枠拡大についても、「いま決まっているのはアメリカの航空会社に12枠、日本の航空会社に12枠という点。我々に何枠配分されて、どこに飛ばすかは決定していないので、はっきりしたことは言えない。ただ、ロサンゼルスは一番需要が高い。私が来た日の座席利用率は97%、成田でセレモニーをやった昨日(5月28日)の便が98%、今日(5月29日)の便も95%という搭乗率なので、ロサンゼルスも一つの候補になるだろうと考えている」とした。
セレモニーでは最後に、「次の10年をイメージすると、2020年に東京オリンピック・パラリンピック、2025年に大阪万博、そして2028年にはロサンゼルスでオリンピック・パラリンピックが開催される。こうしたイベントを機に、今以上に日本・アジアとロサンゼルスの結び付きが深まる10年になると想像している」と述べて、あいさつを締めた。
続いて、来賓としてロサンゼルス国際空港を運営するLos Angeles World AirportsのCOO サムソン・ミンゲス(Samson Mengistu)氏がスピーチ。「継続的に60年間サービスを提供することは素晴らしいこと。日本とロサンゼルスの良好な関係を作るためにJALと協力できることは光栄」と祝辞と謝辞を述べたうえで、60年前の世相について紹介。
1951年のJAL国際線開設から間もない1959年からの運航であることに触れたうえで、「当時はドワイト・アイゼンハワー大統領で、米国の人口は現在より1億5000万人少ない、1億8300万人だった。そしてハワイが連邦の州となった」と紹介。
また、ロサンゼルス国際空港の入り口に立てられている建築物についても触れ、「これは日本生まれの建築家であるテッド・タナカによるもの。象徴的な空港のゲートウェイであり、100フィート以上の高さがある。夜には夜景で彩られる」と紹介。
5年前からの関空(関西国際空港)路線運航も含め「この先もJALとのパートナーシップが楽しみ」と話した。
式典終了後、搭乗口では記念品として搭乗証明書やトートバッグ、ミントタブレットを配布した。