旅レポ
エストニア南部セト地方の知られざる伝統スモークサウナと民謡セトレーロ
ビザなし、入境審査なしでロシアに入国できる足つきNGのエリアも
2018年11月7日 00:00
北と西はバルト海、東はロシア、南はラトビアに面したバルト三国の1つ、エストニア。北欧の要衝ヘルシンキから飛行機で30~40分というアクセスしやすい位置にあり、日本の九州に近い面積に沖縄県ほどの人口が暮らす小さな国だ。しかし小さいとはいえ、その文化は首都タリンや第2の都市タルトゥがある北中部と、南部のセト地方とでは大きく異なっている。
分かりやすい違いとしては、スモークサウナの有無が真っ先に挙げられるだろう。北中部は低温・高湿度のスチームサウナが中心だが、セト地方にはそれに加えてユネスコの無形文化遺産にも指定されたスモークサウナがある。また、鮮やかな赤とシルバーの装飾で彩られた民族衣装や「セトレーロ」と呼ばれる民謡など、独自の伝統も息づいている。
ソビエト時代から度重なる国境の変動に翻弄されてきた特殊な事情を抱えるセト地方だが、そのせいか、エストニアのなかでもここにしかないさまざまな文化や習慣が集まる地域となっているのだ。エストニア政府観光局が主催、フィンエアーが機材協力を行なったプレスツアーの第2回は、エストニア南部を訪問した。
秘境のような森の奥でスモークサウナを堪能
「Piusa Primeval Valley Holiday Complex」は、緑深い森の中、曲がりくねった川に囲まれるようにひっそりとたたずむ宿泊施設。ロシア国境までわずか5kmほどのところにあり、まるで外の世界から隔絶された秘境のような雰囲気が感じられる場所だ。パーティなどの用途で貸切も可能な同施設には、宿泊用の複数の大型・小型ロッジ、食事などを提供する建物、バーベキュー設備、フィッシングができる溜め池、そしてエストニアの無形文化遺産にも指定されているスモークサウナがある。
薪を燃やして5~6時間かけて燻し、室内の壁がすすで真っ黒になったスモークサウナは、一度に10人前後が入ることのできる規模の大きなもの。脱衣所や休憩室として使えるスペースも同じ建物の中にあり、スモークサウナでじっくり汗を流したり、休憩室で軽食やドリンクを補給しながら歓談したりできる。
高温・低湿度の日本のサウナとは違い、温度はやや低め。しかし、室内の熱せられた石に水やビールをかけることで発生する強烈な熱気で温まるのがスモークサウナの特徴となっている。しっかり身体の芯まで温まったら外に出て涼み、あるいは目の前にある川にダイブして、熱を冷ましたら再びサウナに入って温まる……というのを何度も繰り返す。このあたりはフィンランドにもあるスモークサウナとまったく同じだ。
次の世代へと受け継がれるセトの民謡「セトレーロ」と民族衣装
「セトレーロ」とは「セトの歌(民謡)」という意味。複数人の女性による合唱で、メインの歌い手の言葉を、ほかのメンバーが繰り返す、というのが基本形だ。時にはステップを踏みながら、「湖の歌」「祭りの歌」「泣き歌」といった曲名で、その地域ならではの事柄や、女性の気持ちを力強く歌い上げる。ここでは、現地でいくつか披露していただいたもののうち「祭りの歌」を以下の動画でご覧いただきたい。
このとき、歌い手の女性たちが身に着けているのが、セト地方の伝統的な民族衣装。古くは普段着の1つとして使われてきた衣装で、現在も特別な行事の際に着ることが多い。衣装や首から下げたネックレスなどの装飾品は、母から子、あるいは祖母から子へと引き継がれ、修繕やアレンジを加えて使い続ける。伝統文化といえば、世代を経ることで次第に衰退していくものと思われがちだが、この民族衣装やセトレーロは、伝統を重んじる政府の支援もあり、エストニアの子供たちにもしっかり受け継がれているという。
国境画定で分断されたセト地方
エストニアはかつてソビエト連邦に含まれていた地域であり、第二次世界大戦後の1946年に仮の国境線が引かれ、1991年のソ連崩壊およびエストニア国家独立を機に国境が画定した、という背景がある。そんななか、エストニア南部のセト地方は第一次世界大戦後の1920年当時、現在のロシア領内にまで大きく広がる形で存在していたが、仮の境界線が引かれたことで大きく後退。それでもソ連の1地域として境界をまたいだ自由な往来が許されていたものの、ソ連崩壊・エストニア独立と同時にその境界が(わずかに変更が加えられて)国境として設定され、分断されることとなった。
これにより、境界付近に居住していた国民は、親戚同士であってもエストニア側とロシア側に分かれてしまった。場所によっては日常的に通っていた目の前の教会に礼拝に行くことが難しくなったり、あるいは離れにあった自宅トイレにすらたどり着けなくなったりした例もあったとのこと。現在、エストニア国内のセトと呼ばれる地域は、もとの1/3ほどの広さにまで縮小している。
ソ連時代にはコルホーズによってエストニアからおよそ1万人が強制労働に駆り出されたほか、セト地方では土地、水車、家畜などの接収という憂き目にも遭い、貧困にあえぐ家庭も少なくなかった。とはいえ、境界はあっても自由に移動して交流できていたわけで、それが難しくなった現在を考えると、ソ連崩壊やエストニア独立が必ずしもすべてにおいてプラスの影響があったとはいえず、この状況に今も複雑な思いを抱いている人もいるようだ。
このようにソ連との直接的な関わりが多かったためか、セト地方の家屋の作りや家具、周囲の風景には、ヨーロッパというよりソ連やロシアに近い雰囲気が感じられる。「この林を越えればロシア」という場所にも簡単に近づくことができ、車両から降りないことを条件にロシア領内を通過できるエリアもある。国境付近で警備が取り立てて強化されているようにも見えない。それでも、もしここを訪れれば、ソ連崩壊とエストニア独立の影響を最も大きく受けた地域の1つとして、ある種の緊張感みたいなものを肌で感じ取ることができるだろう。