旅レポ
歴史に残る遺産や名所がいっぱいのバルカン半島3カ国探訪(その2)
中世やユーゴスラビア時代の名残りを色濃く残すセルビアの旅
2018年3月3日 00:00
前回よりお伝えしているJICA(国際協力機構)とターキッシュ・エアラインズが共同実施したバルカン半島3カ国視察ツアーのレポート。今回からは各国で訪れた観光地などを紹介していく。まずは最初に訪れた国、セルビアだ。セルビアは、ユーゴスラビアの連邦を構成した国のなかでも面積が最も広く、連邦の首都がセルビア国内のベオグラードに置かれるなど重要なポジションにあった国だ。現在はセルビア共和国となり、首都も引き続きベオグラードに置かれている。
セルビアの入国については前回も簡単に触れたとおり、日本国籍(日本パスポート保有)者は観光などが目的であれば90日間免除となる。入国カードの記入なども必要ないのでラクだ。ただし、他国でもよくあることだが、滞在者登録を代行するために、一時的に宿泊先のホテルへパスポートを預ける必要がある。
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通貨はディナール。応じてくれる両替所などはあるのかも知れないが、日本円からの直接の両替はできないと思った方がよく、あらかじめユーロや米ドルなどを用意しておく必要がある。参考までに、到着空港であるベオグラード・ニコラ・テスラ国際空港にあった両替機は、カナダドル、スウェーデン・クローナ、米ドル、スイスフラン、ロシア・ルーブル、英ポンド、ユーロに対応していた。
記者はこの渡航時、ユーロを持参して空港の両替機でディナールへ両替した。ユーロを利用したのはレートなどが理由ではなく、このあとに訪問するモンテネグロの事実上(モンテネグロもEU非加盟なので厳密にはユーロ圏ではない)の通貨がユーロだったため。ちなみに、その次のアルバニアはレクという別の通貨が使われている。国が変われば通貨も変わるのが当たり前なのだが、なまじユーロが通用する国があるだけに、旅行における統一通貨というシステムの便利さを改めて認識させられる。
ちなみに、「ディナール」という通貨は、ユーゴスラビア時代も同名の通貨が使われていた。旧ユーゴスラビア体制の崩壊に伴う、いわゆるハイパーインフレーションが起こった1993年には、5000億ユーゴスラビア・ディナールという高額紙幣が発行されている。後述するベオグラード要塞近くでは、その5000億ディナールを含む、当時流通していた通貨(発行年が微妙に異なるのが惜しい)を10枚セットで600ディナール(約720円、1ディナール=約1.2円換算)で販売していた。これも一つの遺産だ。
首都ベオグラードに残る社会主義時代の遺産や中世の旧跡
セルビアで最初に訪問した、首都のベオグラード。「ベオ」が白、「グラード」が街で、「白い街」を意味するという。個人的には映画「007」の「ロシアより愛をこめて」でオリエント急行が停車した駅の印象が濃い。記者がこの映画を初めてビデオで見たのが1996年か1997年あたりだったのだが、当時はユーゴスラビア崩壊後の混乱はそろそろ終わるのだろうか……というムードが漂っていた時期。車中からではあったがベオグラード駅を見て、映画公開当時のままの姿に、さまざまなものが刻まれているのだと感じずにはいられない。
ユーゴスラビアは西側とも交流のあった、ある意味“開かれた社会主義の街”というイメージがあるが、現在でもユーゴスラビア時代を感じさせる建物やクルマが残っていることは、ベオグラードの大きな魅力だ。西側の要人が訪問したときに何度もテレビに映った、有名な「ホテル・ユーゴスラビア」や、その近くにある政府庁舎など、いかにも社会主義国家的な建造物を車中から眺めるだけでも興奮する。
「ユーゴ(Yugo)」が現役で走っているのも驚きだ。「ユーゴ」はユーゴスラビア時代の自動車製造メーカーであるザスタヴァが製造したクルマで、現在の同社はフィアットの下請けとして同ブランド品のみを製造しており、ザスタヴァの名前も、ユーゴの名前もクルマのブランドとしては残っていない。さらに、ソ連の「ラーダ」、東ドイツの「ヴァルトブルク」などの、東側諸国で製造されたクルマも見かけた。
さすがに街中に走っているわけではなく、ごくたまに見かける程度なのだが、いざ見かけると、明らかに今どきのクルマとは違う無機質なデザインに「おっ!」と目が留まる。「トラビも走ってるんじゃないか!?」と気にかけていたのだが、こういうのは欲を出すとダメなのか、残念ながら見かけることはなかった。
いきなり個人の趣味全開でお伝えしてしまっているが、ソ連崩壊から20年以上が経過して、社会主義的、共産主義的な物事が、異国の文化ではなく歴史の遺産になりつつある。当時の建物や工業製品が現役として使われているのを見られる時間はそう長くないはずだ。文化の違いというには遅く、遺産というには早すぎるような絶妙のタイミングだという思いがこみ上げる。
そんな、ユーゴスラビアという社会主義の連邦体制を支えた人物がヨシップ・ブロズ・チトーである。個人的に大好きな人物で、自身がハーフであったという事情だけでなく、少数派にも配慮した細やかな政策で、異なる民族が集まる連邦国家を維持し、ソ連とも袂を分かって独自の路線でユーゴスラビアを牽引した大人物だ。
このチトーが死去した途端にユーゴスラビアの崩壊がはじまったという点からも、そのすごさが分かる。旅のレポートなのでその生涯についてここでは詳述しないが、興味のある方は、インターネットで検索していろいろなWebサイトを読んでみてほしい。
セルビアの首都であるベオグラードは、当時のユーゴスラビア連邦政府の首都が置かれ、現在においてもバルカン半島内で最大規模の人口を誇るが、現地のガイドさんによればセルビア国民の平均的な月収は400ドル(日本円で5万円未満)程度とのことで、経済的に先進国と呼べる地位にはない。そうした事情もあって、いまでもユーゴスラビア時代=チトー大統領時代の方がよかったという人も多く、慕う人も多いそうだ。
そんなチトーは、チトー公邸跡地に建てられた「ユーゴスラビア歴史博物館(Museum of Yugoslav History)」の一角の「花の家」に、ヨバンカ・ブロズ夫人とともに眠る。霊廟ともいうべき厳粛な場所だが、館内は夫妻の棺のほか、チトー自身のバイオグラフィや着用していた軍服など、博物館としての展示品も多い。
ユーゴスラビア歴史博物館のほかの施設も必見で、ユーゴスラビア連邦成立からユーゴスラビア連邦時代のアイテムを中心に、軍用品や日用品、チトーゆかりの品など、さまざまなものが飾られている。とくに多民族が集まった連邦国家であったことを伝える展示品を見ると、その民族を束ねたチトーという人物のカリスマ性を感じるとともに、チトー死去後に起こった悲劇的な内戦との落差に哀愁も漂う。
なかには、昭和の時代に日本からチトーに贈られた大勲位菊花大綬章や、現在の天皇皇后両陛下が皇太子時代に贈ったニコン F2なども展示されていた。入館料は大人400ディナール(約480円)、子供200ディナール(約240円、10歳未満は無料)。
また併設のショップにもチトーやユーゴスラビアちなんだ文献やグッズが豊富に揃っている。
ユーゴスラビア歴史博物館(Museum of Yugoslav History)
所在地:Mihaila Mike Jankovica 6 Belgrade
Webサイト:Museum of Yugoslav History(英文)
ところで、ベオグラードは市内が大きく3つのエリアに分かれている。1つは古くからの中心地であるベオグラード地区、2つ目が20世紀以降に開発された新ベオグラード地区(ノヴィ・ベオグラードと呼ばれる)、そして3つ目がゼムン地区である。
新ベオグラード地区とゼムン地区は隣接しており、両地区とベオグラード地区とはサヴァ川をはさむ。サヴァ川はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナといった国を流れ、このベオグラードでドナウ川に合流。サヴァ川をバルカン半島の境界と位置付ける解釈もある。この解釈に従うならば、ベオグラード地区はバルカン半島内、新ベオグラード地区とゼムン地区はバルカン半島の北側にあることになる。
ユーゴスラビア時代以降の近代的な政治経済の中心は新ベオグラード地区に集まっており、先に紹介したホテル・ユーゴスラビアや政府庁舎などもこの地区に建っている。
ゼムン地区は元々はベオグラードとは別の街だったそうだが、第二次世界大戦後の1945年にベオグラードに組み込まれ、新ベオグラード地区の開発によってベオグラードとしての一体化が進んだ。
ベオグラードとは別の街だったことから、のちほど紹介するベオグラード地区とはまた少し異なる風合いの古い街並みが残されており、石畳の上を散歩して歩くだけでも楽しい。ゼムン地区はドナウ川に面しており、その畔に遊歩道も整備されている。
余談ながら、ドナウ川といえば、ヨハン・シュトラウス2世作曲の「美しき青きドナウ」が日本人にもおなじみ。地元のガイドさんによれば、ヨハン・シュトラウス2世はオーストリア人だが、この曲はセルビアのノヴィ・サドの街(当時はオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあった)に流れる青いドナウ川をモチーフにして作られたのだという。そこから100kmほど下流がこの地となる。天気のせいか、時代を経たせいか、青いドナウ川を望むことはできなかったが、サヴァ川よりはきれいだったので、自分のなかでのドナウ川のイメージはギリギリ守られた感じだ。
話をゼムン地区に戻すと、このエリアでもっとも目立つランドマーク的な存在となっているのが、「ミレニアムタワー」で、ガルドスの塔などとも呼ばれる。オーストリア=ハンガリー帝国時代の1896年にハンガリー人の建築家によって建てられ、1962年に修復されている。訪問時は外から見るだけだったが、内部の見学も可能だ。
また、このミレニアムタワーが建つ場所は、中世(15世紀)の要塞跡地でもある。要塞というだけあって高台かつ遠方を見渡せる立地であり、観光のスタンスでいえば、ドナウ川沿いに建つアンティークな建物の屋根や、新ベオグラード地区との対比などを楽しめる絶好のビューイングスポットとなっている。
一歩、ベオグラード地区は古くからベオグラードの中心地であったエリアで、そのメインストリートといえるのが「ミハイロ公通り(Knez-Mihailova)」だ。北西から南東に伸びる通りで、自動車などの乗り入れが制限された歩行者天国になっている。
両サイドには中世から近代の建造物が建ち並び、いわゆる“古い街並み”を求める欧州旅行らしさを満喫できるだろう。通りの南東端には「共和国広場(Republic Square)」と呼ばれるスペースがあり、オスマン帝国から独立したセルビアの名君であり、通りの名前の由来にもなっているミハイロ・オブレノヴィッチ3世の像が建つ。
その共和国広場には、「ベオグラード国立劇場(National Theatre in Belgrade)」も建つ。1868年に建設され、2018年で150周年を迎える。バルカン戦争や第一次世界大戦といった戦渦後の改修を繰り返してきた歴史を知る建造物だ。1990年代の紛争時にNATO(北大西洋条約機構)によるベオグラード空爆が行なわれていた間も公演を続けたという。近年も改修は随時行なわれており日本も支援している。
演目はオペラやバレエが中心で、料金はもっとも高いボックス席でも1000ディナール(約1200円、公演初日など料金が異なる場合がある)、1階のシート席なら700ディナール(約840円)。やや見にくい奥の方なら200ディナール(約240円)からと、はっきり言って安い。ただ、先述のとおりセルビア人の月収は日本円換算で5万円足らずということを考えると、特別な時間に支払う金額という感覚ではありそうだ。
実際にオペラの椿姫(トラビアータ)を鑑賞したが、生の演奏、生の歌声がお腹に響く。椿姫の内容はよく知らず、字幕は出たものの英語ではなかったので、ストーリーはなんとなくしか理解できなかったのだが、それでも見てよかったという満足感は高い。旅行者にとっては大きな負担にはならないであろう料金ということもあってお勧めだ。
ベオグラード国立劇場(National Theatre in Belgrade)
所在地:Francuska 3, Belgrade
Webサイト:National Theatre in Belgrade(英文)
一方、ミハイロ公通りの北西側にあるのが「カレメグダン公園(Kalemegdan Park)」。「ベオグラード要塞(Belgrade Fortress)」を中心に、動物園、ギリシャ正教会などを含む広い公園で、先に紹介したドナウ川とサヴァ川の合流地点を望むことができるなど、ベオグラードでは必見のスポットとなっている。
ベオグラード要塞は、ローマ帝国時代から18世紀のセルビア公国~王国時代まで、改築、増築が繰り返されたという長い歴史を持つ。先述のように、サヴァ川とドナウ川が合流し、バルカン半島の付け根という見方もされるベオグラードは、時代によって異なる国が影響下に置いたが、西方、東方のそれぞれ勢力にとって戦略的に重要な拠点と見なされていたであろうことは想像に難くない。それだけに要塞も重厚だ。
改築、増築が繰り返された経緯があるため、同じ場所の城壁でも使われている石が異なるのも興味深い。例えば、下の写真でいうと、大きな石はローマ時代、小さな石はセルビア公国時代、下の方の赤レンガはオーストリア=ハンガリー帝国時代のものだそうだ。日本では沖縄の首里城の石垣に、太平洋戦争以前のものが一部残っていることが知られるが、戦渦をくぐり抜けた生々しさは城砦跡を見学する醍醐味であると思うし、こうした観光を楽しめる平和な時代であることへの感謝も深まる。
また、公園内には教会もある。いずれもギリシャ正教会のもので、東ローマ帝国の影響下において正教会を受け入れた時代に建てられた教会だ。一つはルジサ教会(Ružica Church)で、入り口に中世と第一次世界大戦の戦士の像が建つ。古さを感じさせる建物だが、オスマン帝国などにより破壊されたことがあり、1900年代に再建されたものとなる。
もう一つは聖ペトカ教会(St. Petka Chapel)で、こちらも1900年代の建物。聖ペトカは女性を守る神様ということもあってか、装飾にどことなくかわいらしさを感じる教会だ。内部はフレスコ画のような滑らかな色合いの絵が描かれているが、実はすべてモザイク。その繊細なモザイクは見事の一言だ。
ところで、セルビアの有名人といって真っ先に思い浮かべるのは誰だろう。空港の名前にはニコラ・テスラの名を冠しているが、正直言ってセルビア人のイメージがあまりない。東海地方出身のおじさん世代の記者としては、個人的にサッカーのストイコビッチ選手を挙げたいところなのだが、近年は男子テニス元世界ランク1位のノバク・ジョコビッチ選手の方が名前を耳にする機会が多く、セルビア人といえば? の問いにこの人の名前を挙げる人も多そうだ。
そんなジョコビッチ選手が家族経営するレストランが、新ベオグラード地区にある「ノバク(Novak)」だ。店内では、戦士の姿をしたジョコビッチ選手の像がお出迎え。優勝カップなどがずらりと並んでいるほか、オリジナルグッズの販売コーナーなどがある。
レストランは賑やかな普通のカフェ&レストランといった感じで、デザートも充実。小麦などに含まれるグルテンに拒絶反応を起こすセリアック病を抱えていたジョコビッチ選手は、食事法を記した著書を出すなどグルテンフリーを実践している人物としても知られており、レストランでもグルテンフリーのメニューを提供している。
ノバク(Novak)
所在地:Bulevar Arsenija Carnojevica 54a, Belgrade
Webサイト:Novak(英文)
さて、このベオグラードでは、「ラディソン・ブル・オールド・ミル・ホテル(Radisson Blu Old Mill Hotel)」に宿泊した。4つ星のビジネスホテルで、ベオグラード地区にあるが中心部からは少し離れた静かな場所にある。中心部から離れているとはいえ、至近にトラムの駅があるので先述のミハイロ公通りなどへも出かけやすいほか、新ベオグラード地区とも近い場所なので、ベオグラード市内全体を巡るうえでの拠点として便利だ。
入り口は古い建物を活かしたデザインだが、客室はリノベーションされた近代的な作り。計236室で、もっとも安価なスタンダード・ルームで広さが34m2から。宿泊したのもこの部屋となるが、シャワーブースとベッドルームはシースルーとなっているせいもあってか数字よりも広々とした印象で、居心地のよい客室だった。
ACコンセントは欧州に多いCタイプが中心で電圧は230V。客室のコンセントはワーキングデスク付近にCタイプとユニバーサルタイプ、USB電源を備えるほか、ベッドの両サイドにもCタイプが用意されていた。
レセプション脇にはレストランがあり、朝食のビュッフェもこちらで提供される。いわゆるコンチネンタルブレックファストだが、サラダやヨーグルト、パンなどが特に豊富なので、短中期の滞在ならうまく変化をつけて楽しめるだろう。
ラディソン・ブル・オールド・ミル・ホテル(Radisson Blu Old Mill Hotel)
所在地:Bulevar Vojvode Mišića, 15, Belgrade
Webサイト:Radisson Blu Old Mill Hotel(英文)
ベオグラードからバルカン半島を南下。近代セルビア王のふるさとを訪ねる
ここからはベオグラードを離れ、南方へと歩みを進めたい。まずは、ベオグラードから南へクルマで1時間ほどのところにある「トポラ(Topola)」だ。先にベオグラードの中心部に建つミハイロ・オブレノヴィッチ3世像を紹介した。こちらのトポラは、セルビアがオスマン帝国から独立したあと、オブレノヴィッチ家と並んでセルビア王、セルビア公の座に就いたカラジョルジェビッチ家にゆかりのある土地だ。
カラジョルジェビッチ家は、セルビア独立の指導者であるカラジョルジェ・ペトロビッチをルーツとする家系で、その彼が独立に向けて蜂起をしたのが、このトポラなのである。ちなみにカラジョルジェの“カラ”は黒を意味しており、日本語風に表現すれば“黒いジョージ”といった名前ということになる。
そのトポラのランドマーク的存在となってるのが、オプレナツ(Oplenac)に建つ、「聖ジョルジェ教会(St. George's Church)」で、1912年に建築された20世紀の教会だ。1階にはカラジョルジェ・ペトロビッチ、地下には同家の歴代セルビア公、セルビア王の棺が置かれている。
ビザンチン様式の正教会で、内部は多数のモザイク画で埋め尽くされている。そのモザイクが見事で、カラフルな色合いを繊細に表現している。オスマン帝国に支配される前のセルビア君主らも描かれるなど、セルビアという国と民族への誇りも感じさせる。
そうしたカラジョルジェビッチ家やトポラについて知ることができるのが、近隣にある「キング・ペータルズ・ハウス(King Petar's House)」だ。カラジョルジェ・ペトロビッチの孫であるペータル1世が住んでいた家を、博物館や案内所として利用している。
なかにはセルビア独立にいたったセルビア蜂起のことや紋章などを紹介するパネル展示のほか、カラジョルジェビッチ家ゆかりの品々のほか、ブドウ園が多くワイン造りが盛んであるなどのトポラの文化などが紹介されている。
トポラ(Topola)/オプレナツ(Oplenac)
Webサイト:Tourist organization Oplenac, Topola(セルビア語)
Webサイト:Oplenac(英文)
そんな、ワイン造りが盛んなトポラでは「アレクサンドラビッチ・ワイナリー(Vinarija Aleksandrović)」というワイナリーも訪問した。トポラ近郊は寒暖差や日照時間、土壌などがブドウ作りの条件に優れているそうで、古くはローマ時代から栽培、ワイン造りが行なわれていたという。訪問したアレクサンドラビッチ・ワイナリーが立地する場所では、それ以前(ユーゴスラビア時代も含めて)にもワイン造りが行なわれてきた。
1992年に現在のスタイルでの経営となったアレクサンドラビッチ・ワイナリーは現在、赤ワイン、白ワイン、ロゼワイン、シャンパンなど多数のラインアップを製造。伝統的に白ワインを中心に製造されており、銘柄ももっとも豊富だ。周囲には75ヘクタールのブドウ園が広がり、製造量は年間約40万Lにおよぶという。セルビアの経済が決して発展しているわけではないことは前述のとおりだが、ワインだけは輸出も好調で、製造したワインのうち40%は輸出に充てている。
予約をしておくとガイドツアーにも応じてくれ、試飲などもさせてもらえる(有料)。ガイドツアーではワイナリーの各施設の見学や、同地でのワイン造りの歴史を紹介するビデオの視聴なども含まれている。
アレクサンドラビッチ・ワイナリー(Vinarija Aleksandrović)
Webサイト:Vinarija Aleksandrović(英文)
その後、さらに南下し次の目的地へ向かう。その途中で昼食に立ち寄ったのが「ルニエヴィツァ(Lunjevica)」というレストランだ。店名と同じ、ルニエヴィツァ村にあるレストランで、少し標高が上がって牧歌的な雰囲気が漂うなかに立地している。
立地もさることながら、店内には本物の暖炉もあり、木の温もりを感じられる柔らかい空間。調度品もかわいいものが多く、いろいろなものに目をとられてしまう。
メニューはセルビアの伝統的な料理が揃っており、アイバルという赤ピーマン(パプリカ)を焼いて水気を飛ばし、塩やこしょう、オイルで味付けしてペースト状にしたものは、どんな料理にもマッチする味。
また、豚肉、牛肉を使った料理も一般的とのことで、塩、こしょうだけでなく、野菜とともに煮込むなどしっかりした調理がされていながら、クドくないさっぱりした風味で、日本人の舌に合う味付けが印象的だった。
ちなみに、お店の人が、2007年に日本とセルビアが国交樹立125周年を迎えたことを記念して発行された切手と封筒を保管しており、見せてもらうことができた。封筒の裏には両国の長い友好関係とともに、ユーゴスラビア連邦崩壊後にいち早くセルビアと国交を回復したことや、JICAを通じた技術支援への感謝の言葉が綴られている。日本でも2011年の東日本大震災の折にセルビア国民から多額の義援金が寄せられたことがニュースとなったが、親日国であることは純粋にうれしいし、平和的な友好関係が長く続くことを祈ってやまない。
ルニエヴィツァ(Lunjevica)
Webサイト:Lunjevica(英文)
続いて向かったのは、ルニエヴィツァからほど近い、モラヴィツァ郡チャチャク近郊のミニチェさんのお宅(Minic's house)。ここは、バルカン半島一帯で広く親しまれている「ラキア」というお酒を製造している。
ラキアとは果物の蒸留酒で、馴染みのある言葉で表わせばブランデーの一種。この地域はプラムが多く採れることからラキア作りが盛んで、そうしたプラムやカリンなどを使用したラキアが多いという。
そうしたラキア作りを営むミニチェ家は、30種類以上の果物からさまざまなラキアを作り、賞なども獲得している。試飲させてもらうと、ウイスキーのようでもありながら、かなりフルーティ。普段からあまりお酒を飲まない記者にはやや強く、多くを飲むのはキツそうだったが、それでも飲みやすいお酒だったので、いろいろな果物のラキアを少しずつ舐めてみるような飲み方ができれば……などと感じた。
そんなラキアはバルカン半島旅行のお土産にお勧めだ。数百円相当から高いものでは300ユーロ(約4万円、1ユーロ=約135円換算)など値段の幅はあるそうだが、好みの風味のものを買うもよし、いろいろな風味の小瓶を複数買うもよし、好みの買い方ができる。
修道院の多いセルビア。ユネスコ世界遺産の修道院にゲストハウスも
さて、これまでにも教会などを紹介してきたが、セルビアは修道院が多い国でもあり、その数は200を超える。いくつかはユネスコの世界文化遺産に登録されているほか、欧州評議会が設定したヨーロッパの文化を巡る観光ルート「トランスロマニカ(Transromanica)」の「ロマネスク・ルート」にも組み入れられている。
そうした修道院のなかでも、中世セルビア王国の祖であるステファン・ネマニャ王にゆかりがあり、のちに成立したセルビア正教会にとっても重要な地となっているのが「ストゥデニツァ修道院(Studenica Monastery)」だ。ベオグラードから南へ3~3.5時間ほどの場所にあり、公共交通機関はないため、近隣のクラリエボの街からタクシーなどを使ってアクセスする必要がある山間の修道院だ。
ストゥデニツァ修道院(Studenica Monastery)
ユネスコ世界遺産「Studenica Monastery」(英文)
壁に囲まれた修道院には、3つの主要な聖堂があり、それぞれに高い価値を持っている。
1つ目は「生神女聖堂(Church of the Virgin)」で、この聖堂が中世セルビア王であるステファン・ネマニャによるものとなる。12世紀後半の建築で、西方のロマネスク様式、東方のビザンツ様式が組み合わせられたラシカ様式と言われる独特のデザインが特徴となっている。
内部のフレスコで現在残るもっとも古いものは13世紀前半のもの。1208~1209年に東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルから招いた画家により、十字架に磔にされたキリストが描かれている。そのほかのフレスコは、16世紀にコソボ出身の画家によって修復されたものが多いという。
後述の聖堂についても同様だが、フレスコで描かれたイコンは顔や目が傷つけられているものが多い。これはイスラム教を背景とするオスマン帝国の支配下において、キリスト教の聖人の顔を破壊した跡だという。
また、一部のフレスコには点描のような傷が入ったものもある。これは宗教的な理由とは別のもので、オスマン帝国支配からの脱却後に行なわれた大規模修復において、元のフレスコの上に新たなフレスコを描く際に付けられた。こうすることで漆喰の乗りがよくなるからだ。1951年に修復後のフレスコは剥がされ、現在は傷が入った元のフレスコを見ることができる。
2つ目は聖母マリアの両親「聖ヨアキム&アンナ聖堂(Church of St. Joachim and Anne)」。こちらは1314年の建築で、ステファン・ネマニャ王の曾孫にあたるミルティン王によるもの。「王の聖堂(King's Church)」の名でも呼ばれている。
14世紀に描かれたフレスコが多数残されており、ミルティン王自身や、シモニダ王妃、ステファン・ネマニャの子でセルビア正教会の大司教である聖サワなど、同家の人物が描かれたフレスコが特徴だ。こうしたことから「王の聖堂」といった別名があるのだろう。
3つ目は「聖ニコラス聖堂(Church of St. Nicholas)」で、13世紀に建てられた石造りのこぢんまりした聖堂。ここでは早朝に礼拝が行なわれており、非常に厳粛なその雰囲気を見学させてもらうことができた。
さらに、ストゥデニツァ修道院は壁のすぐ外にゲストハウスもあり、1泊2食付きで2500ディナール(約3000円)ほどで宿泊することもできるほか、昼間だけ600ディナール(約720円)で滞在するなどのプランもある。
修道院のゲストハウスということで特別な印象があるが、客室にあったインフォメーションに、修道院や教会などのルールを守ってほしい、大きな音を出してはいけないなどの一般常識的な案内はある程度で、宗教的になにか厳格なルールがあるわけではなく、むしろ静かに落ち着いて過ごせる宿泊施設といった印象だ。
宿泊した客室は3ベッドルームで、アメニティが石けんのみで、調度品も最小限なあたりに素朴な雰囲気が漂うが、シャワーブース、水洗トイレ、洗面台、ワーキングデスク、オイルヒーターがあるほか、Wi-Fiインターネット環境やコンセントを複数備えるなど、機能性は十分。
また、夕食は量が少なめではあったが、こちらも素材そのままの味を楽しめる美味しい料理で、デザートも付く。安い宿泊施設としては十分過ぎるほどのホスピタリティだ。
続いて向かったのは、ストゥデニツァ修道院からさらにクルマで1時間ちょっと南に行ったところにある「ノヴィ・パザール(Novi Pazar)」という街。ノヴィは“新しい”、パザールは“市場”を意味する。中世セルビア王国時代から貿易の街として発展がはじまったが、より街としての重要度が高まったのはオスマン帝国の侵攻から。ノヴィ・パザールという名前も、元々は1461年に同地に侵攻したオスマン帝国軍によって、トルコ語で“新しい”を意味する「“イェニ(Yeni)”・パザール」と命名されたもので、そのままセルビア語で同義の名前が引き継がれている。
オスマン帝国時代にはイスタンブール、サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)、ドブロヴニク(クロアチア)を結ぶ重要な交易ルートの中心として栄え、中心部を走る古い道は「イスタンブールへの道」や、貴金属を運ぶ「金の道」などとも呼ばれたそう。交易で重要な地点であることから、戦渦に巻き込まれることも多く、要塞は第一次世界大戦までにかなり破壊され、今では17世紀に作られた塔など一部が残る程度になっている。
街並みもこれまでの欧州らしさから一転し、一気に中東の空気が流れ込んだような雰囲気。実際、セルビア国内でもイスラム教徒の比率は高いそうで、街中には「アルタン・アレム・モスク(Altun Alem Mosque)」のミナレットがそびえ立っている。
その近くにある創業200年という古いカフェも訪ねた。ここは金属製のひしゃくのような器と炭火を使って、昔からの作り方でトルココーヒーを楽しめるお店。近隣の貴金属屋さんがお客さんに振る舞うためのコーヒーをすぐに注文できるよう、インターフォンでつながっているのも面白い。
ノヴィ・パザールの中心部からクルマで15分ほどのところには、これまた歴史の移り変わりを感じられるバルカン半島らしい修道院「ジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院(Djurdjevi Stupovi Monastery)」がある。ここは、「スタリ・ラスとソポチャニ(Stari Ras and Sopocani)」の構成要素としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
先述のストゥデニツァ修道院のところでも登場した、中世セルビア王国のステファン・ネマニャ王より、当時、首都として機能していた都市であるラス近郊の修道院として、12世紀後半に建てられ、発展した。
その中心にある「聖ジョルジェ聖堂(Church of St. George)」は、ロマネスク様式とビザンチン様式が融合したラスカ様式の初期のものとされている。ただ、オスマン帝国の侵攻や、のちの第一次バルカン戦争の戦渦により、聖堂の両サイドにあった2つの塔が破壊されたり、聖堂内にあった13世紀に描かれたというフレスコ画が破損していたりする。現在、聖堂内のフレスコ画は剥がされ、ベオグラードの国立博物館で修復が進められている。
そのすぐ隣には小さな礼拝堂がある。こちらの内部には美しいフレスコが残されているが、やはりオスマン帝国の侵攻により、天井のドーム部分に描かれていた人物の首から上が完全に剥がされているほか、壁に描かれた人物の顔や目の部分が傷つけられている。それほど広くない修道院だが、歴史の傷跡をまざまざと見せつけられるスポットだ。
セルビアの旅の最後に、絶景スポットを1つ紹介しておきたい。セルビア南西部にある「ウバッツ自然保護区(Special Nature Reserve Uvac)」だ。名前のとおり貴重な動植物の宝庫であることから、国によって保護されているエリアとなる。
ここで必見なのが、ヘビのようにうねるウバッツ川。ダムによって生まれた人工湖が作り出した絶景だ。崖からせり出すように作られた(ちょっと不安のある)展望台から、その蛇行した川の造形を望むことができる。
ウバッツ自然保護区内へは近隣の街からさまざまなツアーが提供されており、ここでは4WD車に乗るもの。このほかにも、カヌーなどで川からアクセスしたり、キャンプを楽しんだりするプランもある。この絶景はぜひ見てほしいが、そのほかの楽しみ方と組み合わせて時間を過ごすと、より自然を満喫できる旅になりそうだ。
そのウバッツ自然保護区へ向かう拠点となる街、シェニツァ(Sjenica)で、地元の民族料理を味わえるレストラン「ドリナ・ブコバ(Dolina Vukova)」も訪れた。「ブコバ」はオオカミを意味する言葉とのことで、狩ったシカの角を使った装飾など、肉食感あふれる店内。
こちらでは肉の燻製や、豚のミンチとジャガイモを炒めた「ムサカ」という料理などをいただいた。視察として訪れるとどうしても滞在時間が限られてしまうのだが、お酒を飲みながら長く過ごしたい雰囲気のお店だった。
さて、次回は国境を越えて、同じ旧ユーゴスラビア構成国の一つで、体制崩壊後のセルビアとの関係も深かった、アドリア海に面する国、モンテネグロの旅を紹介する。