旅レポ
歴史に残る遺産や名所がいっぱいのバルカン半島3カ国探訪(その4)
「千の窓の街」や「石の街」など旧鎖国国家・アルバニアの世界遺産へ
2018年3月10日 00:00
バルカン半島3カ国視察ツアーのレポートは今回が最終回。今回紹介するのは、セルビア、モンテネグロの南に位置するアルバニアである。“ねずみ講”や“ヨーロッパ最貧国”などで話題になったり、近年もコソボ問題などで“アルバニア人”という文字をニュースで見る機会が多かったりした一方で、観光での訪問先としてはあまりメジャーではないように思える謎多き国だ。
この一連の旅で訪問した3カ国のうち、唯一、旧ユーゴスラビア構成国ではない国となるが、やはり共産主義国家で、ソ連の衛星国とならずに鎖国政策を採り、無神国家宣言をしたことで知られる。その意味ではユーゴ同様に異端の共産主義国だったといえる。指導者のエンベル・ホッジャ死去後に、開放政策を採ったものの、国民の多くがねずみ講によって破産寸前となって暴動が起こるなど、20世紀末から21世紀の初めにかけてはヨーロッパ最貧国という言葉で表わされるほどに苦しい経済状況にあった。現在も決して経済的に豊かな国ではないそうだが、経済発展の取り組みの一つとして、観光振興にも力を入れている。
通貨はアルバニア・レク(以下、レク)で、1レクは1円ほど。日本円から両替できるところはほとんどないとのことで、米ドルやユーロからレクへ両替するのが一般的。訪問時はモンテネグロでも使用したユーロから両替した。ちなみにアルバニアはEU非加盟だが、一部ではユーロも(いわば私的に)流通しているそうで、後述する首都のティラナで宿泊したホテルにはユーロ建ての料金表が置かれているほど。さすがに現地通貨を一切持たないことを勧めるのは不安だが、こうした理由からも日本円から両替する際に媒介する通貨としてはユーロが無難な選択肢となるだろう。
訪問前、アルバニアに対する観光地としてのイメージはなにも抱いていなかった。地理上はアドリア海とイオニア海に面し、南にギリシャ、西は海をはさんでイタリアとも近い。バルカン半島という地政学上もさまざまな文化が入ってきそうな国だが、近代に鎖国政策かつ無神国家宣言をしたこともあって、20世紀に入ってからの他国からの文化流入は制限されていただろう。そうした一般知識からはアルバニアという国がどのような雰囲気なのか想像もできなかった。
調べてみるとユネスコの世界文化遺産もあり、いずれも古い時代の遺跡があまり手を入れられていない状態で残されているのがポイントだという。今回の旅は、その世界遺産を中心にまわることになった。
歴史に残る遺産や名所がいっぱいのバルカン半島3カ国探訪 記事一覧
アルバニアへは北部のシュコドラ州にある国境から入国。モンテネグロからの国境を越えた途端に、建物や道路が一気に“田舎”っぽくなったように感じられる。
国境のモンテネグロ側も市街地というわけではないのだが、それでも道路の舗装の状態は明らかによかった。こうした変化を敏感に感じられるのは、陸路で国境を越える面白さでもある。
そして、そのまま南下して、まずは首都のティラナ(Tirana)に向かう。ティラナに近づくと激しい道路渋滞に見舞われた。ティラナだけで国民の13%、周囲を含めた首都圏で1/4~1/5ほどが生活するとのことで、日本における東京圏への一極集中に似た背景を持つ。幹線道路や市内の渋滞も理解できる。
ティラナには夜に到着して、翌日朝に出発するスケジュールだったため、眺めた程度。治安はわるくないそうで、クラブやバーなどのナイトライフを満喫できるスポットも多い。だが、街灯など少なく夜は全体に暗めなので、一人歩きはちょっと怯んでしまった。
19世紀に建てられたというモスクや、その隣の時計塔など歴史を感じる建造物はあるものの、そもそも都市が作られたのがオスマン帝国時代とのことで、全体的には近代の人の手が入っている点で、これまでに紹介してきた街とは様子がかなり異なる。約50年間の鎖国時代を経て開放路線に切り替えた国の首都ということもあって、近代的な建物といってもさまざまな価値観のものが混ざり合った雰囲気。短時間でも独特の異国情緒を感じられる街だ。
ティラナ(Tirana)
Webサイト:Bashkia Tiranë(アルバニア語)
そんなティラナで宿泊したのが、市街ど真ん中のスカンデルベッグ広場に隣接する4つ星ホテル「ティラナ・インターナショナル・ホテル&カンファレンスセンター(Tirana International Hotel & Conference Centre)」だ。共産主義時代の1979年に当時アルバニアで最も高い建物として開業。同国を代表するホテル&カンファレンスセンターとして、西側を含むさまざまなVIPが訪れたという。21世紀に入ってから最も高い建物の座はほかに譲っているものの、共産主義の様式が残る15階建てのホテルには高級感と重厚感がある。
客室は158部屋。宿泊したのはデラックスタイプの部屋で、広いベッドルームにバスタブのあるシャワールーム。さらにウォークインクローゼットや、エクストラベッドを広げられるスペースが独立して用意されるなど、設備は非常に豪華だ。Wi-Fiインターネットも無料で提供されている。ベッドサイドにコンセントがなかったり、ワーキングデスクは小さめだったりと気になるところはあるが、部屋全体のクオリティから考えると些細なことのように思える。
これでいて、時期によっては100ユーロ(約1万4000円、1ユーロ=約140円換算)以下、通常期でも150ユーロ(約2万1000円)以下。立地や設備からするとコストパフォーマンスは非常に高いし、せっかくアルバニアに来たんだから共産主義時代に建てられたホテルに……という旅の体験の面からもお勧めしたいホテルだった。
ティラナ・インターナショナル・ホテル&カンファレンスセンター(Tirana International Hotel & Conference Centre)
所在地:Scanderbeg Square Nr.8, Sheshi Skenderbej Nr.8, Tirana
Webサイト:Tirana International Hotel & Conference Centre
ティラナでは、スカンデルベッグ広場から少し離れた「エスニック(Etnik)」という伝統料理を味わえるレストランでディナーをとった。アルバニアでは野菜を活かした料理が多いそうで、伝統的なサラダや煮込み料理などをいただいた。
このレストランに限らずアルバニアの飲食店は気遣いが細やかで、テーブルの上の料理が途切れないよう次々に料理が出される。BGMに生演奏も披露してもらった。このスタイルがアルバニア流のおもてなしなのだろう。
「2400歳の博物館」や「千の窓の街」の異名を持つ世界遺産「ベラット」
ティラナから南下し、アルバニア国内にある3つの世界遺産を順に紹介していきたい。まずは、ティラナから南へ120~130kmほどのところにある「ベラット(Berat)」だ。もともとは後述する「ジオカストラ(Gjirokastër)」が2005年に世界遺産に登録されたが、のちの2008年にそのエリアを拡大する格好で「ベラットとジオカストラ歴史地区(The Historic Centres of Berat and Gjirokastër)」として登録されている。
ここは「2400歳の博物館」の異名が付けられ、紀元前5~6世紀に当時のバルカン半島に王国を築いたイリュリア人が住み始めたのが街の始まりという古い都市。古くは統治者が変わるたびに「アンティパトレア」「プルケリオポリス」「ベオグラード(セルビアの首都と同じく白い街の意味)」と街の呼び名が次々と変わったという、入れ替わり立ち替わり侵略を受けたバルカン半島を象徴するエピソードがある。
ベラットはオスミ川を隔てて北側のマンガレム地区、南側のゴリツァ地区に分けられ、マンガレム地区の小高い山の上には、「ベラット城」跡地がある。主に東ローマ帝国時代に作られた要塞の遺跡で、古い水道システムの跡や13世紀に建てられた正教会の聖堂など、破損が目立つところは多いものの歴史の重みを感じられる遺跡が数多く残っている。
また、山上ということもあって眺めの素晴らしさもポイント。東側は一帯が国立公園にも指定されている標高2416mの「トモリ山(Tomorr Moutain)」、西側にはユニークな形の丘陵が印象的な「シュピラグ山(Mt. Shpirag)」、北側はそうした山の間を抜けて平野が広がるオスミ川流域の街を望むことができる。
そのベラット城の麓にあるマンガレム地区は、山の傾斜にオスマン帝国時代の民家が密集して建つ。2階に多くの窓を持つ様式の建築物が並ぶ独特の様子から「千の窓の街」と呼ばれている。オスミ川を渡った反対側が撮影ポイントだ。
石垣の上の白い壁に縦長の窓が並ぶ建物が並ぶSNS映えするビジュアルもさることながら、オスマン帝国時代の民家がよい状態で残ることから、歴史的価値も高いという。共産主義時代にも文化が守られた土地であるともいえるだろう。
また、この一帯は現在のベラットのダウンタウンでもあり、カフェやレストランでにぎわっている。ここから山を上がればベラット城跡、オスミ川を下流に進むと石造りのゴリツァ橋などのスポットがあるほか、点在する正教会の聖堂やモスク巡りなどもできる。また、オスミ川対岸のゴリツァ地区の観光をしたい人にも便利な、ベラット観光の拠点となる場所だ。
ベラットとともに世界遺産登録されている「石の街」こと「ジオカストラ」
ここまでに紹介したベラットは、「ベラットとジオカストラ歴史地区(The Historic Centres of Berat and Gjirokastër)」としてユネスコ世界文化遺産に登録されており、元々は「ジオカストラ歴史地区」が先に登録されていたことは先述した。続いては、そのジオカストラへと向かう。ベラットからはクルマで南へ3時間ほど。ベラットの街を流れていたオスミ川よりも海側のビオサ川とドリノス川をたどる。
ジオカストラはそのドリノス川沿いの街ではあるが、4世紀に作られた城砦「ジオカストラ城」をいただく山の坂に沿って街が作られている。結果として「千の階段の街」という異名もあるというほど階段や坂が多い街並みとなっている。通りは石畳だがクルマも乗り入れできるので、歩道感覚で散策していると驚かされることになる。
この街も14世紀後半~15世紀前半に始まったオスマン帝国統治時代に大きく発展したもの。19世紀のアルバニア独立後にも行政的に重要なポジションにあったという。共産主義の指導者であるエンベル・ホッジャもこの地の出身で、その生家が民族博物館として活用されている。
シンボルともなっている「ジオカストラ城」は、先述のとおり4世紀に作られたものが、その後も受け継がれてきたもので、現在でもアルバニアでもっとも大きなお城となる。実際になかは非常に広く、歩きまわるのが楽しい。「ここから落ちたら(命が)危ないかも……」というような場所にも行けてしまうほど立ち入りを制限しているエリアがかなり少ないことに驚いた。
ジオカストラ城は現在「兵器博物館」と利用されており、入場料は200レク(約240円、1レク=約1.2円換算)。保存状態は決してよくないが、オスマン帝国統治時代に使われたキャノン砲や、バルカン戦争から第二次世界大戦にかけての戦車、「Spy Air?」と銘打った米軍の国籍マークが入ったF-80戦闘機の残骸などが置かれている。とはいえ、そうした展示品だけでなく、お城そのものの見学を楽しめるのがこの場所の魅力だと思う。
その眼下の街に並ぶ家はオスマン帝国統治時代以降に建てられたものが多い。石造りの建物が多いのが特徴で、ジオカストラは「石の街」とも呼ばれている。ベラットの「千の窓」の家に雰囲気に近いが、より大きな家が多い。ベラットは2階建ての家が多いが、ジオカストラは3階建て、4階建ての家や、横に増築したような形の家も目立つ。バザール(市場)などもあったこの街で、大家族が一つの家で暮らしたからだそうだ。ホッジャの生家もあとから増築したような不思議な形になっている。また、オスマン帝国からの独立後にはギリシャ人が多く入植したことで、ギリシャの建築様式も混合しているという。
ベラットと同じように、共産主義時代から保全されたこともあって、ジオカストラ城の付近は古い街がそのままに残されている。一方で、ドリノス川寄りには10階建て前後の近代的なアパートメントも建っており、そのコントラストにも時代の流れを感じられる面白い場所だ。
また、ジオカストラにある「コドラ(Kodra)」は、そうした石造りの建物を活かしたホテル&レストラン。そのレストランでは、野菜のパイや、イチジクを使ったデザートなど、アルバニア伝統の料理をいただくことができる。また、この日は伝統舞踊も披露してもらえた。食も芸能もトルコ(オスマン帝国)の影響の強さが伝わってくるのが印象的だった。
ジオカストラ(Gjirokastra)
Webサイト:Gjirokastra(英文)
ローマ時代の遺跡が残る古代都市「ブトリント」
さて、アルバニアにあるもう1つのユネスコ世界文化遺産が「ブトリント」だ。イオリア海沿いの最南方、ギリシャとの国境に近い場所にある。その一帯の広大なエリアが「ブトリント国立公園(National Park of Butrint)」として保護されている。遺跡などが集まるエリアは散策できるよう整備されており、入園料は外国人訪問客の場合で700レク(約840円)となる。
ブトリントはローマ帝国時代の遺跡が多く残る点で、先のベラット&ジオカストラとは大きく異なる。古くは旧石器時代の遺跡も残る。この地にはギリシャ統治時代から人が住み始めたとされ、紀元前3~4世紀ごろから始まるローマ帝国統治の時代に大きく発展。この地域の庁舎が置かれるなど、重要な都市であったと考えられている。その後、東ローマ帝国、ヴェネツィア共和国による統治が行なわれたが、そのヴェネツィア時代の15~16世紀には湿地が広がったために人が離れていったという。都市が放棄されたことが、逆に紀元前からの遺跡を残す結果につながったのだろう。しかも、ブトリント国立公園は水鳥のために重要な湿地としてラムサール条約にも登録されているのだから歴史は分からない。
そうした遺跡が多く残るエリアは、ブトリント国立公園内にある半島の南端部分で、要塞のようになっている。1992年に中心的なエリアの一部がアルバニアで初めてのユネスコ世界文化遺産に登録され、その後、対象エリアの拡大が続いた。ねずみ講の破綻に端を発した暴動により遺跡での略奪などが起きたため、一時は危機にある世界遺産リストの対象ともなったが、現在は解除されている。
入り口はその南端にあり、対岸にはヴェネツィア時代に建てられた要塞跡が見えるが、クルマで直接は行けず、渡し船……というか対岸をロープでつないだイカダで渡ることができる。この半島の西側からはギリシャ領のコルフ島が間近に見える(ただしブトリントとの間に航路はない)。
ブトリント遺跡群の位置
遺跡は、ローマ時代のものでは紀元前3~4世紀ごろに作られた要塞や聖堂、公衆浴場の跡などが残る。アルバニアにもテルマエがあったのかと、阿部寛さんの顔を思い浮かべずにはいられない。
また、ライオンが牛を捕られたレリーフが描かれたライオンゲート(Lion Gate)など、要塞への侵入者を防ぐための門の数々も面白い。門を抜ける際に屈ませるように開口部が低く作られている。ここは石の大きさによる建築年の違いも分かり、大きく切り出した石がギリシャ~ヘレニズム時代のもの、小さい石がローマ時代のもの。ギリシャ時代に作れた門をそのまま利用して、ローマ人がより堅固にしたといった様子がうかがえる。
東ローマ帝国時代のものとしては、洗礼堂や聖堂の跡が残る。破損は激しく、屋根も失われているが、床にはモザイク画が残されているという。ただ、野ざらしによる風化を防ぐべく盛り土保存されているために、その姿を見ることはできない。訪問者としては残念ではあるのだが、観光客誘致(=外貨獲得)のために風化覚悟で公開するよりも好感が持てるし、保存への本気を感じる対応だ。
今日のアルバニアは、イスラム教徒が多数派を占めているが、オスマン帝国が進出する以前の中世期にはキリスト教が盛り上がった時代もあったのだとうかがえ、キリスト教が伝来する以前の歴史だけでなく、キリスト教、イスラム教と中心となる宗教が移り変わっていくアルバニアという国の文化への好奇心をかき立ててもくれる。
イオニア海を望む美しい街「サランダ」など魅力あるアルバニア沿岸部
アルバニアの世界遺産はベラット、ジオカストラは内陸部にあり、ブトリントは海沿いではあるが遺跡群が海に直接は面していない。だが、アルバニアには、アドリア海とイオニア海に面した国であるという魅力もある。海岸沿いの大きな街としては、北からデュラス、ヴローラ、サランダあたりが知られる。アドリア海とイオニア海の境界は解釈によって定義が異なるようだが、おおむねヴローラとサランダの間あたりとなる。
そんなアルバニアの海沿いの街で、もっとも南に位置するサランダは、夏場を中心にリゾート地としてにぎわう場所だ。先述のブトリントを訪れる際の拠点としても便利なほか、(今回は時間の都合で訪れることができなかったのだが)湧き水が瞳のように青く映ることで有名になったSNS映えスポット「ブルーアイ」や、ブトリントの項で触れた対岸のコルフ島への定期便も運航されているなど、周囲に存在する多くの観光地を楽しむこともできる。
もちろん街自体も海に面して石畳の遊歩道が延びる美しいところ。湾を囲むように街が広がっており、ここまでに紹介してきたアルバニアの景色とはひと味違う街並みを楽しむことができる。
サランダ(Saranda)
Webサイト:Saranda(英文)
ちなみに、このツアーではブトリントを訪れる前日の夜を同地で過ごした。宿泊したのは、「ヴィラ・ドゥラク(Vila Duraku)」。湾の南側寄りにあるホテルで、先述の遊歩道へもすぐに出られる立地にある。周囲と比べてもこぢんまりとしたホテルだが、宮殿のような外観にインパクトがある。
客室やバスルームは面積はそれほど広くないのだが、広々と感じるレイアウトで、のんびりと過ごせる。調度品にやや古くささは否めなかったが、ベッドの両サイドにコンセントを備えている点など、今どきのニーズにも合った機能的な部屋という印象。シービューの部屋からはサランダの街に沈む夕陽を望むこともできるという。
ヴィラ・ドゥラク(Vila Duraku)
所在地:Rruga Naim Frashëri, Sarandë
また、サランダでは、ヨットをイメージした外観が海の街を感じさせるシーフードレストラン「リマネ(LIMANI)」でディナーをいただいた。石畳の遊歩道の途中にあるレストランだ。
スープからコロッケ、リゾット、タイのグリルというシーフード尽くしのディナー。サラダやデザートも入れて、約1500レク(約1800円)と格安といって差し支えないであろう内容だった。コスパだけでなく、海の幸の風味がそのまま伝わる味も思い出に残る品々だった。
リマネ(LIMANI)
所在地:Rruga Jonianet, Saranda
帰国の途に就くべく、ティラナ国際空港を目指して進んだ、サランダから北方へ、ヴローラまで続く高速道路8号線は魅力的な道路だった。この道はイオリア海のコーストラインに沿うように延びる道路で、サランダから北へ進んだ場合は、左手にイオリア海を望みつつ、チカ山(Maja e Çikës)の裾野を縦断するように走る。まさに雄大な自然に包まれた、と表現するにふさわしい道路だ。
その途中にも街が点在。ベラットで見た「千の窓の街」のように山の斜面に家々が連なる街や、イオリア海に面するビーチ沿いのおしゃれな街など、つい立ち寄りたくなる。
この道は途中、「ロガラ国立公園(Llogara National Park)」を通る。風の影響を受けて変形したという松の木などがあるという。この道沿いにある「ソフォ(Sofo)」では、ミルクソースに入ったミートボールや、パイ、ナッツにはちみつを絡めたスイーツなどのアルバニア伝統料理を楽しむことができる。
ちなみに、このロガラ国立公園の北西にはカラブルン半島があり、その海沿いにあるビーチや、石灰岩が削られてできた洞窟なども有名な観光地になっている。そちらへは陸路では行けず、北方のヴローラから船に乗って訪れることになる。アクセス方法といい、絶景といい、気になるスポットだ。
世界遺産を中心に紹介したアルバニアだが、海岸沿いの観光地のほか、内陸部には自然豊かな公園など、ほかにも数々の観光スポットがある。数カ所を渡り歩いただけでも、ほかの欧州諸国とは異なる文化を感じられるユニークさとひしひしと感じ、かつての閉ざされた国という面影がまだ残るところにも誘われる国だった。
さて、全4回にわたってお伝えしたバルカン半島3カ国旅。最初の訪問地であるセルビアのベオグラードからモンテネグロを経て、最南端はアルバニアのブトリントまで1000km以上の距離を南下、まる7日間をフルに使った旅となった。移動時間も長めではあるのだが、似ているようで微妙に異なる文化を持つ3カ国を集中的に見てまわるというのは、陸路で国境がつながっている国を旅する一つの魅力だ。
また、古代ギリシャ時代からローマ、東ローマ、オスマン、ヴェネツィア、民族の独立、ユーゴスラビア、再び民族独立と、長い歴史のなかで次々に異なる文化が流入、隆盛を繰り返したバルカン半島は、観光地として主流の西欧とはやはり雰囲気が異なる。欧州の新たな魅力に触れられる点は同地訪問を推す理由の一つに挙げられる。そうした歴史的な遺産への観光はもちろん、バルカン山脈やアドリア海などの自然に触れるスポットも充実している。
さらに、飛行機の乗り換え1回で、ビザの事前取得も必要なく、想像以上に気安く行けるという点は改めて挙げておきたい。日本は海外への直行便が充実してはいるが、欧州内でも乗り換えを必要とする国や都市はまだまだ多い。(通貨やシェンゲン圏外という手間はあるが)その乗り換えた先に行く場所の一つと考えれば、ハードルが低く感じられるのではないだろうか。おそらく多くの日本人も名前だけはよく聞くものの、特に冷戦時代を知る人には近寄りがたさもあるであろうバルカン半島。新たな旅先の候補としてお勧めしたい場所だ。