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太川蛭子も乗った「下教来石」行きバス、なぜ廃止に? つながらなくなる甲州街道沿いバスの歴史を紐解く

下教来石バス停

山梨県を出て、長野県へ徒歩ルート

 テレビ東京系「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」シリーズをご覧になった方なら、「下教来石」(しもきょうらいし)という地名を聞いたことがあるかもしれない。このちょっと厳めしい地名に向かう、「山梨交通バス 下教来石線」が、まもなく廃止になる。

 このバス路線は、JR中央本線が釜無川の北岸を走るのに対して、南岸の国道20号(甲州街道)を北西に走り抜け、山梨県・長野県の県境まで3kmほどの場所にある終点「下教来石」バス停にいたる。かつては県境あたりまでバスが到達していたというが、路線短縮の前はとてつもなくガラガラだったようで……。

 まず、このバス路線が番組に何度も登場したいきさつを、実際のデータとともに調べてみる。そのうえで、甲州街道沿いのバス路線が廃止になり、どんどんつながらなくなるまでの歴史をたどってみよう。

「乗り継ぎ」「対決旅」シリーズ登場は5回

 まず、これまで下教来石バス停が「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」に登場した回を振り返ってみよう(筆者調べのため、抜けがある場合はご容赦いただきたい)。

下教来石バス停の登場回(※筆者調べ)

18弾(2014年09月13日放送):
マドンナは野村真美さん。下車後に八ヶ岳美術館まで徒歩
特別編 熱海→金沢(2016年11月26日):
マドンナは宮澤佐江さん。田中要次さん、羽田圭介さんペアの実質的な初戦。下車後に富士見駅まで徒歩
2日間でタクシー1万円OK 高尾山~長野・諏訪湖(2020年05月16日放送):
下教来石から山口方面のスクールバスに乗り継ぎ
Z 第18弾(2022年1月8日放送):
3日目、韮崎市で宿泊
ローカル路線バス乗り継ぎ対決旅 陣取り合戦(2022年9月14日放送):
河合郁人さん(A.B.C-Z)が、甲府駅で「下教来石」行きバスの情報ゲット

 番組第1回放送が2007年なのに対して、下教来石の初登場は2014年の第18弾。25回も続いた初代(太川・蛭子コンビ)ではかなり後半になるが、シリーズ開始から当初の7年間は東海道、東北、北海道、関西などをくまなく回っており、明らかにバス乗り継ぎが不便な甲州街道(山梨県)ルートは後回しになったのではないか。

 しかし、この登場回(第18弾)のマドンナ・野村真美さんはシリーズ屈指の健脚を発揮し、下教来石バス停から八ヶ岳美術館まで、高低差が続くルートを歩き切った。その後も甲州街道ルートは何度か採用が続き、「乗り継ぎ」シリーズに限らず、テレビ東京の旅モノシリーズで広く知られるようになった。

 なお、山梨県→長野県のバス乗り継ぎ移動は、釜無川に沿ったルートしかない。うち北岸はJR中央本線が長坂駅・小淵沢駅を経由しているうえに国道や幹線道路が少なく、バス路線も北杜市民バスで小淵沢駅~長坂駅~日野春駅を乗りつげる程度で、韮崎市にはつながっていない。

 東京からは相模原~道志村~富士吉田~甲府~韮崎までは乗り継げるとして、ここから長野県・塩尻方面に乗り継ぐには、下教来石を経由する以外の選択肢しかないことが、知れわたってしまったのだ。

 下教来石バス停には1日5往復しかバスが来ず、このエリアは北杜市内でも、そこまで知られた存在ではない。にもかかわらず、「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」シリーズや、“乗りバス”聖地として訪れる人々もいたという。

 しかし、バスが走る甲州街道は、江戸幕府によって整備された五街道(ほかには東海道、中山道、日光街道、奥州街道)の一角として、数百年の伝統を持つ。路線バスが惜しまれつつ歴史を終える今、バスの沿線である「甲州街道・下教来石宿」の歴史をたどってみよう。

下教来「石」は、ヤマトタケルも座った石?

 下教来石という地名は、古代日本の皇族・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東の豪族を討伐する際に、座ってひと息休憩したという巨石に由来するという。石はかつて「経来石(へてこいし)」と呼ばれていたのが「教来石」の漢字が当てられた……と言われているが、日本武尊の伝説はいたるところにあり過ぎて、本当に腰かけたかも含めて「諸説あり」の域を出ない。

 その後は、バス沿線の白洲町を中心に、国人「教来石氏」が数代にわたって一帯を治めていたようだ。今はその名残を確認できないが、一帯には上屋敷、中屋敷、裏門などの地名もあり、この一帯で長らく権勢をふるったのだろう。

 とはいっても勢力はあまり大きくなく、この教来石氏が表立った歴史に登場するのは、戦国時代のころ。1546年(天文15年)、教来石氏の民部少輔景政が、武田家家臣のなかでも途絶えていた馬場家を継ぎ、白州町白須の馬場氏館へ移ったという。武田家の重心である馬場氏の存続が重要視され、代わって教来石氏は途絶えたようだ。

 この「教来石民部少輔景政」は馬場氏のもとで馬場信房・馬場信春と名乗りを変え、「生涯70度以上の戦で傷を負わなかった」という武勇によって、武田信玄に使える「武田四天王」として名をとどろかせる。武勇・統治・築城など多岐にわたってその名は語り継がれており、関連する書物ならびに「信長の野望」などのゲームでは、武田信虎(信玄)の家臣として、ほぼ必ず重要シーンに登場する存在だ。

 しかし、最後は織田家との雌雄を決する「長篠の戦い」で君主・武田勝頼を逃がすための殿(しんがり)を務め、壮絶な最後を遂げる。悲運の最後を遂げた名将・馬場信房に想いをはせつつ、所縁の地である下教来石をバスで往くのもよいだろう。ただし、主な史跡はほどんど道路から外れているうえに、バスも1日5往復しかないので、正直に言うとクルマで巡った方がよい。

沿線に「街道の宿場町」が2つ。廃止区間は「乗車率ゼロ」だった?

山梨県・長野県の県境。釜無川が下を流れる

 江戸時代に入って幕府によって「甲州街道」として整備された際にも、今のバス沿線に「韮崎宿」「台ケ原宿」「教来石宿」が置かれており、戦前のバス路線図にも、台ケ原宿を拠点とする「台ケ原自動車」(山梨交通の源流の1つ)のバス路線として、その名が描き込まれている。沿線に複数の宿場町を持つ甲州街道沿いの街として、早期のバス路線開業を必要としたのだろうか。

 しかし、川向かいに中央本線が走っているとあっては、都市間移動の需要は微々たるもの。クルマの移動も中央道に完全に移ってしまい、甲州街道にあたる国道20号沿いはドライブイン・大衆食堂が次々と消え、集落の衰退やモータリゼーションとともに、バスの利用者もどんどん減っていく。

 平成に入ると、山梨・長野県境の「国界橋」バス停までの利用者数は「平均乗車密度ゼロ」という衝撃のガラガラぶりとなり、1994年9月末に廃止。そして、下教来石までのバスルートも、まもなく廃止となる。

 韮崎駅からのバス路線の少なさや徒歩距離を考えると、もはや下教来石経由の山梨県→長野県ルートが「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」に登場することもないだろう。

甲府駅の象徴・武田信玄像

 2026年4月からは、北杜市民バス「白州・武川デマンドバス」が、予約制バスとして地域輸送を担うこととなる。1日5往復のバスと違って「道の駅はくしゅう」など、目的地となり得るスポットまで行ってくれるため、改めて廃止後に足を運んでみるのもよいだろう。