旅レポ

長崎県北の佐世保、波佐見エリアにある日本遺産を巡る旅(その3)

窯焚きさんしか食べられなかった「特別な料理」もいただく

 長崎県北「日本遺産」を巡るプレスツアーもいよいよ最終日。初日は鎮守府というキーワードでつながる針尾送信所や無窮洞など戦争遺産を見学。2日目の午前は鎮守府にまつわるスポットや現在進行系の迫力が満喫できる佐世保の軍港クルーズを体験。午後は佐世保のもうひとつの顔「日本遺産」の対象である窯業について体験する内容だった。

 そして3日目、この日は長崎県と佐賀県の県境にある波佐見町へ。焼き物に詳しい方なら波佐見焼のことをご存じだと思うが、波佐見町はまさにその産地。四方を山に囲まれた盆地にある、のどかで落ち着きを感じさせる町で、焼き物文化は約400年の歴史を持つところ。それだけに町内には江戸時代から昭和まで使用されていた登窯の跡が36基もあり、なかでも特に重要な5基の窯跡と2箇所の窯業関連遺跡が国史跡に指定されている。

 今回はそのなかから永尾本登窯跡、皿山役所跡、中尾上登窯跡、そして畑ノ原窯跡を波佐見町教育委員会から文化財保護係 学芸員の中野雄二さんの案内で巡った。最初に向かったところは「永尾本登窯跡」だ。

1666年から使われた永尾本登窯跡

 約350年前に作られた永尾本登窯では庶民向け白磁の食器(くらわんか碗、くらわんか皿)や、酒や醤油を輸出するときに使われた「コンプラ瓶」が主に作られていた。ちなみに登窯とはお碗をふせたような形状の窯が山の傾斜を利用して階段状に連なっている構造。それぞれの窯は通焔孔と呼ぶ炎の通路で繋がっているため火力を上げやすく一度に大量に焼き上げることが可能な作りになっているのだ。

 そもそも登窯は山の斜面を利用して作るので、表通りから奥まったところにある。そこで我々のツアーは表通りでバスを降り、古い家屋が並ぶ細い道を歩いて現地へ向かう。途中、地元の方とすれ違ったが、完全なよそ者である我々一行に対して、気さくに挨拶をしてくれたところにもこの地域のよさを感じた。

 永尾本登窯は1666年(寛文6年)に作られ1950年頃まで使われていたことが古文書に記載されている。それに登窯跡の側には物原(失敗品の捨て場)も発掘されているが、そこからの出土品は古文書どおり江戸時代から昭和までに至るものであった。しかも長年に渡って同じ場所が物原として使われていたので、焼き物の破片が約10mの高さで堆積していたという。

3日目は波佐見町教育委員会から文化財保護係 学芸員の中野雄二さんが案内してくれた。最初に向かったのは永尾本登窯跡。主に庶民用の器を作っていて、大量生産が可能な窯だった

 長い歴史を持つ永尾本登窯だが最盛期は江戸時代後期だったようで、この時期には全長は155m、窯室は一辺が6mから8mの大きさで数は29室もあったらしい。この規模の登窯は世界でも第3位になるものである。

 現在は、窯室自体は残っていないが、窯室があった場所の石積みの壁は今も原型を留めるカ所もある。窯室がなくなったあとの平らな部分は段々畑などに再利用されていた。

 この窯跡の横には物原の跡地もあるが、そこは現在、地域の方が畑として利用、畑の表面には耕すときに出てきたと思われる破片がたくさん見られた。しかも江戸時代のものと思われる薄い青の色付けがされた磁器の破片を始め、さまざまな年代の磁器の破片があちこちにあり、300年以上の時の積み重ねと今の生活感が混在する何とも不思議な感覚の場所でもあった。

永尾本登窯は庶民の器を作ってきた場所だけに、物原も発掘をしていけば庶民の器の歴史がわかるのだが、その予算がないので手つかずのままという。庶民の生活こそ、その時代を語るための重要なことだと思うので、発掘は実現してほしい
右手で摘んでいるのが色あいから見て江戸時代の焼き物の破片。左手は明治以降のものだという。こんなものが無造作に落ちている

カーブもシュートも使いこなす江戸時代の名ピッチャー!? 焼き物作りの最高階級の窯焚きさんの仕事とは

天井部まで残っている窯は貴重。本来は5つの窯室があったが残っているのは3室のみ。2000年に行なわれた発掘調査では地下に埋蔵する残り2室が確認されている

 永尾本登窯跡から徒歩で移動し智恵治窯跡へ向かう。ここは明治期に操業が始まり、1935年(昭和10年)には小柳智恵治氏によって大規模改修を受け、1952年まで使用されていた窯。天井部まで完全に残っている登窯は波佐見だけでなく、有田や唐津など含めた肥前地域では唯一といえるもの。そんな貴重な文化財なので長崎県の県史跡に認定されている。

 明治に作られた窯だが床面積は江戸時代の窯とほぼ一緒なので、江戸時代の窯もこのような状態で天井部が作られていたことが智恵治窯跡から推測される。この智恵治窯では主に日用食器、割烹食器、壺などが生産されていたが、昭和天皇や、戦後の日本を統治したマッカーサー元帥へ献上品もこの窯で作られたとのこと。

 窯に薪を入れる焚き口も残っていたが、智恵治窯で焼かれていた食器などは1300度くらいまで温度を上げるので、写真のように大きな口が開いていては火が吹き出てきて近寄れない。そこで薪をくべるときは20㎝角くらいの穴を残しあとは粘土や煉瓦で口を塞いでいた。その穴から薪を投げ入れていくのだが、窯の温度を均等に上げるには1辺が約8mある窯に均等に薪が散らばるように投げ入れる必要があった。

 そこで窯を焚く係の人「窯焚きさん」と呼ばれる人は、小さな穴から広い窯室内に均等に散らばるよう薪を投げていたという。中野さんが以前調査したことによると、窯焚きさんは薪投げにおいて野球でいうカーブやシュートが使え、窯室内の隅々にきれいに薪を散らせるだけでなく、四角く積み上げていくこともできたらしい。

 焼き物作りにはろくろ師、絵付け師など色んな階級があったが、焼き物作りにおいてもっとも重要な「焼く」という高等作業を行なう窯焚きがいちばん上の階級とされていて、なおかつ窯焚きさんはひとつの窯の専属ではなく、あちこちの窯を回って仕事をしていたので、行く先々で上げ膳据え膳の待遇を受けていたとのことだった。

1辺が6m~8mあるのでかなり大きな窯。江戸時代の窯も土台が同様のサイズだったところから、似たようなものだったとこの窯跡から推測される。窯には煉瓦を使ったものと粘土で作ったものがあったが、持ちは煉瓦作りの窯のほうが長かったという。窯においての事故は火を使うだけに覆っていた母屋に引火して火事になることはあったらしい。しかし、窯内には焼いている途中の焼き物があるので水をかけるわけにもいかず、鎮火するまで待つしかなかったということだ。
皿山役所跡。ここで波佐見窯業の検品や税金に関わる事務処理も行なっていたようだ。また、ここでキリシタン禁止令に伴う踏み絵なども行なわれていたという

復元された窯を使い、現代に登窯の焼き物作りを再現する

畑ノ窯跡は文禄・慶長の役で朝鮮から連れてこられた陶工、李裕慶によって築かれたという説もある。現在は4室の窯室が復元されて実際に焼き物を焼いている

 次に向かったのは畑ノ原窯跡。ここは国内ではじめて磁器生産が開始された1610年~1630年代の登窯と考えられていて、全長は約55.4m、窯室は24室あったこと1981年に行なわれた発掘調査によって判明している。

 現在の畑ノ原窯跡は1993年に実際に焼き物を焼くことができる4室の登窯を復元していて、訪れたときはちょうど窯を焚き始めたタイミングで現代の窯焚きさんが作業していた。そこで例の薪を投げ入れることについて質問してみると、かなり練習を積み、狙ったところに投げることができるとのこと。

 ただ、訪れたときはまだ最初に火をおこす胴木間での作業だったので、小さい窓から薪を投げ入れる行程は残念ながら見ることができなかった。タイミングがあえばその光景も見られると思うので、現地へ行かれる前には波佐見町の教育委員会へ作業の有無など問い合わせてみるとよいだろう。

畑ノ原窯跡周辺はきれいに整備されている。広い駐車場もあるし清潔な公衆トイレも完備。来訪者が記念に記帳していく記帳台も設置してあった
復元された窯室。登窯の解説も設置されていた
ここは焼き物をセットする焼成床がある窯室。煉瓦でフタをしているところから中に入って写真での左側へ焼き物をセット。入れたら薪を投げ入れる穴のみ残して煉瓦で入り口を塞ぐ。薪は燃やすことに適している松材を使用する
現代は温度計をセットして窯内の温度をチェックするが、当時は色見孔という穴から窯内部の炎の色を見て温度の判断をしていた。炎は火種から外に向かうほど色に違いがあるが、窯焚きは温度が高い外側の色を見ていたとのこと。窯の最終点には登り切った熱が抜ける排煙孔があった
復元された窯室の上には発掘された窯室内が外から見えるカタチで見つかったままの状態で展示されていた。とくに写真にある19室はどのように窯詰めされていたのかわかりやすい状態で発見されている
粘土や煉瓦で作る登窯は雨が苦手なので、屋根があるだけでなく当時から窯の脇には雨を流す排水溝が掘ってある
訪問したときは窯焚きの最中だったが、いちばん最初の行程である胴木間に薪をくべ始めたばかりだった。ここの火は窯全体の水分を飛ばすためにおこなうという
こちらが現在の窯焚きさん。薪を投げるところも見たかった。体型も引き締まっているが窯焚きは重労働なので「痩せるんです」とおっしゃっていた。焼き物を焼き始めるのは夜になってからということだった

波佐見地区で最も栄えた窯業の里は、窯業以外の魅力も満載

 見どころが多い波佐見。今度は波佐見で最大の窯場として発展を遂げた中尾山地区である。この地区では江戸時代以降の登窯は5基確認されていて、そのなかには世界最大規模となる全長約170mの大新登窯跡がある。

 また、全長約160m、世界第2位の中尾上登窯跡もこの地区のものだ。それに登窯とは関係ないが大正の末期から昭和にかけて操業していた石炭窯の煉瓦煙突が8本あり、それも窯業の里らしさを醸し出している。ちなみにこの煙突は窯場に風情を伝えるということから、長崎県の景観遺産に指定されている物でもある。

 そういった景色は町の入り口にある中尾山展望所から一望できるが、当時栄えた町だけに、狭く高低差がある山の間の土地に家がギュッと固まって建っている光景は独特のもの。今回は徒歩でこの町を歩き、展望所の対面の山肌に見える中尾上登窯跡に向かうのだが、発展した窯場の風情が残る道を歩く行程も非常に楽しみに思えるものだった。

中尾山展望所からの風景。山あいに家が密集しているのがひと目でわかる。ここに来るまでの山道には家がなかっただけにこの密度には驚いた。展望所には波佐見最大の窯場らしく焼き物やトンバイ石を使用した石碑が建っている
この石碑は中尾山の発展に携わった先人の陶工達の偉業と遺徳に敬意を表して作られたもの。それだけに練り込まれている器は江戸時代のものから昭和のものまで幅広い。石は窯を壊したときに出たものを使っていると、この地の歴史を集めて建造したといえる重みのあるものだった
中尾山地区の案内板。狭い町に見どころが詰まっているのがわかるだろう。今回は時間の都合で急ぎ足での見学になったが、時間をかけてじっくりと見て回るべきところだと思う
基本的に坂道ばかりで、坂の側面は絶壁という感じ。そこで塀が設けてあるが段々の作りも珍しく、さらに焼き物で装飾している。こういう塀はあちこちにあるのでそれを見て回ることも楽しい。中尾山地区もぜひ訪れていただきたいところだが、クルマでないと行けない場所。レンタカーを借りるのもいいし、乗り合いタクシーなるものもあるようなのでそれを利用するのもよいだろう
展望所から中尾上登登窯に向かう途中にある「中尾山交流館」はこの地にある18の窯元の作品が展示販売されているギャラリー。ここで気に入った陶器を見つけたあと、その窯元に行ってみるのもよい
中尾山交流館にあった現代の窯元の作品。伝統的なものもあるがこのように遊び心も取り入れた作品も多い。別棟では陶芸教室に素泊まりの自炊オンリーだが宿泊施設もある
ここが中尾上登登窯跡。窯室は残っていないが現在は整備中とのこと。ここは世界第2位の長さで、1位もこの地にある全長約170mの大新登窯跡。そして3位も永尾本登窯跡。この3つの窯は江戸時代に同時に存在していたので、波佐見でいかに大量の焼き物が作られていたか想像できるだろう
中尾山地区は山奥ながら栄えた場所なので各地に歴史を感じるものが多い。また、盆地ということで湿気も多いのか苔が生えている場面もよく見たが、人が触らない場所が多いので見慣れたコンクリートブロックもこのように絵になる姿になっていた
中尾山交流館

所在地:長崎県東彼杵郡波佐見町中尾郷157
TEL:0956-85-2273
営業時間:9時~17時
定休日:火曜日、お盆・年末年始
Webサイト:中尾山交流館

窯焚きさんだけが食べられたスペシャルメニュー「冷や汁」

 3日目の昼食は中尾山交流館の隣にある「文化の陶 四季舎」でいただく。ツアーに用意されていたのは「冷や汁」という料理。これは窯焚きさんのために作られた料理と言うことである。

 窯焚きさんは窯の状態を管理するため作業中は窯から長く離れることはできない。また、非常に暑い環境での仕事でもある。そこで里の人が考えたのが温かいごはんに冷たい味噌仕立てのだし汁をかけた冷や汁を振る舞っていたとのこと。

 当時は焼いたイワシを丸ごと乗せていたとのことだが、四季舎さんは焼いたあじをほぐして乗せていた。それに加えてミョウガとキュウリとゴマを混ぜている。そして肝心の出汁だが、これには味噌にゴマを混ぜ、それをすり鉢で擦る。そして擦ったものを焼くことで香ばしさを出したものを使うという。ごはんは麦ごはんを使っている。この冷や汁は焼き物の中心地であった中尾山地区のみで振る舞われたものとのことで、同じ波佐見でもほかの窯では食べられなかったとのことだ。

 なお、冷や汁は手間がかかる料理で「来店の5日前には予約をしてほしい」とのこと。予約なしでは、季節の野菜を使うので材料不足で作れないこともあるという。

こちらが四季舎さん。切り盛りするご主人と奥さま。中尾山を訪れる機会があれば絶対に立ち寄ってもう一度冷や汁を食べさせてほしいと本気で思うほどの味
窯焚きさんのみが食べることができた冷や汁。5日前には予約が必要で、急に行っても食べられない
文化の陶 四季舎

所在地:波佐見町中尾郷660
TEL:0956-27-6051
営業時間:10時~17時
定休日:木曜日、お盆・年末年始
Webサイト:文化の陶 四季舎

観光ガイド付きで、中尾山の街と西の原を効率よくまわる

 ここからは「はさみ観光ガイド協会」から石原さんにきていただき、中尾山の街と西の原を案内していただいた。はさみ観光ガイド協会のガイド料金は、1名2時間までで基本は500円。人数が増えれば行程が同じでも人数分の料金が加算される仕組み。30分超過ごとに200円が掛かるが、効率よく見どころをまわることができ、理解を深めるためにもうまく活用したい。

はさみ観光ガイド協会の石原さん。波佐見地区を回るときには観光ガイドさんに同行してもらうと効率よく見て回ることができる

 石原さんの案内で道中に見かけた窯元を見学させてもらうこともできた。見せて頂いたのは「陶房 青」さん。白磁の仕上げ行程と絵付けの行程を見学できたが、やはり興味深いのは絵付け。

 お碗の底にウサギが入った絵柄の作業中だったが、ちょうど行なっていたのがあとで剥がせる液体ゴムを使うゴム抜きという行程。これは染めを行なう前に染まってほしくないウサギの目の部分のマスキングになるとのこと。

 工房の向かいには作品を展示するショールームがあったが、そこで見た白磁のコップを手に取ってみると、そこそこの大きさがありながらまるで「紙コップか?」と思えるほどの軽さ。これは波佐見焼の特徴でもある。

町のあちこちに焼き物を使ったものがある。観光用の作りだが焼き物の色合いや質感が上品なので町の雰囲気を壊すことない
乗り合いタクシーも町の奥になると本数は減る
焼き物の里には川がつきものという。昔は川に焼き物に使う石を砕くための水車のようなものがあったという
小さい陶山神社では祠の天井に現代の絵付け師が描いた絵が使われていた。訪れたときは改装真っ最中だった
窯跡は至る所にある。まったく整備されていないものはもったいない気もするが、いかにも遺跡という残り方はとても趣がある
制作工程を見学。工房の2階では絵付けの作業が行なわれていた。
陶房 青の工房の向かいには作品を展示するショールームがある
中尾山は遺跡もいいが町歩き自体も楽しいところ。住宅地を抜ける道は人が通るのがやっとの道幅だし、民家も古いものが多いので雰囲気のいい裏道がいたる所にある。ここを歩くだけでも訪れる価値がありそう
中尾山のうつわ処 赤井倉さんにも立ち寄った。ここは明治時代の焼き物の卸商だった奥川商店の建物を利用していて、内部も雰囲気のいいところ。店の前には川があり、中尾山の主要道路添いなので手すりの焼き物装飾もより凝った作りになっていた
最後に訪れたのは西の原地区にある国の有形文化財に登録されている福幸製陶所の建物群。ここは現在、建物の外観や内装は生かしたまま、カフェや雑貨店に生まれ変わっている
はさみ観光ガイド協会

TEL:0956-85-2290
Webサイト:はさみ観光ガイド協会

佐世保や波佐見は、リアルで重みのある歴史を間近で感じる場所

 長崎県の観光といえば出島やグラバー園、ハウステンボスなどを思い浮かべる人は多いと思う。これらの場所も歴史があって魅力的だが、長崎県北地域の「日本遺産」を巡るプレスツアーで訪れた佐世保や波佐見も見どころはかなり多い。

 そして各所はメジャー観光地のように整備されすぎていることはないので、よりリアルで重みのある歴史を間近で感じることができるのだ。しかもそれらの場所は日本遺産に認定されたことで「訪れるべきところ、見るべきもの」というお墨付きにもなった。これは、機会があれば行くところではなく、時間を作ってぜひ訪れていただきい場所。そういう感想を持った。

深田昌之