旅レポ
歴史と温泉を堪能する天草&島原の旅(その1)
「天草四郎」と「島原・天草の乱」にまつわる史跡めぐり
2016年4月2日 00:00
日本国土の約1%の土地に日本にあるカトリック教会の10%以上が集中しているという長崎。世界遺産を目指しているというそんな「長崎の教会群とキリスト教関連施設」をめぐる旅「VISITあまくさ・しまばら モニターツアー」に参加してきました。
長崎県が実施するこのツアーのルートはその名のとおり長崎県の島原半島と隣接する熊本県の天草市で、海に囲まれた立地ならではのグルメや豊富な温泉、そしてキリスト教関連施設を堪能した3日間でしたが、今回はキリスト教関連施設を中心にお届けします。
ツアーの始まりは羽田空港から直行便で長崎空港へ向かいます。世界初の海上空港である同空港から橋を渡り街へアクセスし現地での旅が始まります。ツアーバスに乗った参加者一行は最初の目的地島原半島へ向かい東へ。途中車窓から、その運用の是非について物議を醸した諫早湾干拓堤防が見えると、そこはもう島原半島の雲仙市。ここで一旦空腹を満たし一行は最初の目的地 島原城へ向かいます。
島原城
1618年から7年もの歳月を費やし築き、その城下は重税とキリシタン弾圧に苦しめられた領民の一揆「天草・島原の乱」の舞台ともなった島原城。明治時代に石垣とお堀を残し惜しくも解体されてしまったものの1964年に五重の天守閣が復元され、現在その内部は資料館となっています。
島原の乱の資料を集めた「キリシタン史料」をはじめ「郷土史料」「民族史料」を展示していて、敷地内の別棟には、南島原市出身で長崎市内の平和公園にある平和祈念像を作ったことでも知られる彫刻家 北村西望氏の作品を展示する「西望記念館」もあります。ここではキリスト教関連施設とは違うもう一つの長崎の歴史の一端も感じられます。
天守閣の入り口には女性だけで構成された島原城七万石武将隊なるおもてなし武将隊がいて、休日には演武などを披露しているそうです。また入り口に用意されたさまざまな衣装を身につけ記念写真を撮ることもできます。
日野江城跡
かつてこの地域の領主であった有馬氏の居城跡。現在発掘中のこの城跡からは豊臣系の城郭で流行したという金箔瓦も見つかり中央政権との結びつきを物語っているとのことです。13代目当主でキリシタン大名の有馬晴信の時代に作られたという破壊した仏塔を利用した仏教徒に対する踏み絵のごとき階段など、時代の痕跡が残っているようですが、訪れたときにはあいにく発掘中でそんな歴史の片鱗を見られなかったのは少々残念でした。
島原城の完成とともに廃城となり、天草・島原の乱以降は最近まで畑や果樹園として利用されていたこの日野江城跡は、現在世界文化遺産登録を目指し発掘や修復の作業が行なわれていて、この地が歩んできた歴史の足跡がもうすぐ見られるでしょう。
日野江城跡のある高台の麓にあるのが有馬川殉教巡礼地。この地は棄教を迫る領主が1613年にキリシタンへの見せしめとして信者を処刑した場所だそうです。島原にはそんな痛ましい歴史を刻んだ場所があちこちにあるそうです。
原城跡
1496年に築城し日野江城同様島原城の完成とともに廃城となったた原城。1638年、天草・島原の乱ではすでに廃城となっていたこの場所に3万7000人もの領民が籠城し、総大将である天草四郎を始めとする一揆軍がここでほぼ全滅させられたと伝えられている悲劇の地です。
富岡城跡
島原半島のさまざまな城跡を見学したあとは有明海を渡り天草(熊本県)へ。1605年築城のこの富岡城は島原・天草の乱において幕府側の拠点として一揆軍の攻撃を受けるもののその猛攻に耐えたそうです。その後一揆軍は有明海を渡り島原の原城に籠城し終焉を迎えることとなるのです。
一方、落城を防いだ幕府側にとっては後の徳川政権の安定に大きく寄与した戦であったともいえるそうです。歴史に「もし」は禁物ですが、ここ富岡城が一揆軍に陥落させられていたならその後の日本の姿は大きく変ったかもしれません。島原・天草の乱におけるターニングポイントとなった地、日本の歴史に大きな影響を与えた地、それが富岡城だと言えそうです。本丸には展示施設「富岡ビジターセンター」が設置され、天草の自然や文化の紹介が行なわれています。
16世紀なかばフランシスコ・ザビエルによって我が国に伝えられたカトリック。16世紀後半、その洗礼を受けた日本人は数十万人にも膨れ上がったとも言われているますが、カトリックという宗教に対して警戒心を持ち始めた豊富秀吉が1587年にキリスト教禁制の文書「バテレン追放令」を発令し、これ以降、表立っては宣教しにくい時代に突入します。
その後、徳川家康の時代、1614年にはキリシタン禁止令が出され、ここから日本のカトリック信者は隠れて生きていかなければならない時代、捕まったなら宗教を捨てたと証明しないと生きていけない時代に突入するのです。そんな17世紀のカトリック弾圧の歴史の証が今回訪れたさまざまな史跡なのです。
さて、ここまでは教科書やガイドブックなどにも見られる受け売り的なものではありますが、なかには諸説あり一つの史実として確定していないものもあります。そもそもキリシタンであることを隠さなければならなかった時代があるということは、その証拠も当然隠されていたわけで、証拠が十分でないゆえにどうも曖昧さが残ったり疑念の持たれる史実も少なくないようなのです。
今回ガイドを務めていただいたNPO法人 長崎巡礼センターの入口仁志氏によれば「歴史はのちの支配者によって作りかえられるものです」とのことです。たしかに歴史というのは時代を超えた伝言ゲームのような側面もあるので、時の有力者に都合の悪いことはいつでも上書き可能ではあります。
ただし一方で、今まで見つかっていなかった歴史の証拠を丹念に調べ続けている人もいつの時代にも存在し、そんな事実の積み重ねで見えてくる新たな真実もあるわけで、今世界遺産登録を目指すこの地域の歴史はその検証作業の真っただ中なのかもしれません。
というのも実はすでに世界文化遺産登録の申請を済ませていたにもかかわらず、ユネスコの諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)から、そのテーマを「禁教令」「潜伏」「弾圧」に焦点を当てて申請せよとの指摘を受け、申請を一度取り下げ、今は再び登録を目指し申請しようとしている真っ最中なのだそうです。
島原・天草の地はカトリックの歴史のなかでも最も血が流された場所だそうです。私見ではありますが、世界文化遺産の登録を目指すのならそんな現実を直視しそこにきちんと焦点を当てた申請をしてはどうか、という指摘なのかもしれません。今、世界遺産を目指しそんな歴史の検証が続くいているこの地は実は今こそが旬なのかもしれません。
一揆軍が全滅した原城址で前述した長崎巡礼センターの入口さん曰く「一例を挙げると、天草四郎という人物の実態は誰も分かっていないのです。なにしろ信徒さんは全滅してしまったのですから」「そもそも旧約聖書、新約聖書ともに神の教えは『人を殺すなかれ』と言われている中で島原・天草の乱ではなぜ3万7000もの人が戦争に突っ込んで行くという手段をとったのでしょう?」
丁寧に調べ上げ見つかった時代の証を積み重ねながら、そのなかから感じる時代のメッセージを持論を交えながらも語るツアーガイドの存在は今回のツアーの目玉であったと感じます。長崎や島原・天草地区ではそういったガイドチームがあり、少人数のグループでも個人でもガイドを頼むことも可能だそうです。
世界遺産前夜のこの地で教科書や書物で知った情報を検証したり、ちょっと疑念を持ったり、真実を求めてみたり、美しい海と山々に囲まれたこの地で豊富な知識を持ったガイドさんと話を交えながら波乱に満ちた16~17世紀の人に想いを馳せるのは思いのほか充実した時間でした。
今回まわった島原・天草のエリアははどこにいてもかつての歴史を物語るものが、資料館という形だったり、誰にも気付かれないような小道であったり、そこかしこに点在している地区でした。日本の歩んできた歴史の一端に触れながらも広い空と青い海に囲まれたこの地でゆったりと過ごす時間はなかなか得がたいものだと感じます。
世界文化遺産登録に向け、これから整備が続けられていくであろうこの地区の旬は、ある意味、今なのかもしれません。