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最北の秘境駅「抜海駅」まもなく消えゆく! 街の歴史と廃止までの経緯を探る
2025年1月31日 20:00
2024年に「100周年記念碑」建てたばかり……抜海駅、無念の廃止
JR北海道管内の駅には、1日の乗客数が数人もしくはゼロといった駅が数多く存在し、近年では駅の休止・廃止が急速に進んでいる。2025年3月15日のダイヤ改正では管内の5駅が廃止の対象となり、そのなかには1924年(大正13年)の開業から歴史を重ねてきたJR宗谷本線「抜海駅」(稚内市)も含まれている。
「日本最北の秘境駅」とも呼ばれる抜海駅は、日本海沿いの海岸線に沿って広がる「抜海原野」の内陸にあり、駅前には商店もまとまった集落もない。しかし駅は上下線のホームと列車の交換設備もあり、きっぷの販売窓口やゆったり広い待合室など、駅舎内はほぼ昔のままだ。
1940年(昭和15年)に建てられた駅舎は、にぎわいを見せていた数十年前の空気感をそのまま味わえて、まるで駅そのものがタイムカプセルのよう。存在そのものが観光名所でもあり、遠方から何度も訪れるファンも少なくないという。しかし利用者は、数値上は「過去5年間で1日の平均利用者2.2人」。合理化の対象となり、100年以上の歴史に幕を閉じ、いま消えゆく。
この駅も、かつては朝晩ごとに通学利用でにぎわっていたという。なぜ抜海駅は、クマザサが生い茂る原野のなかにあるにも関わらずにぎわっていたのか。まずは、この駅を最寄りとする集落「抜海」の歴史を探りつつ、周辺を歩いてみよう。
駅から集落は2.5km! 「高単価漁業」「不凍港」の街・抜海とは?
抜海駅の駅前通りで目立つのは、1軒の民家と「抜海駅100周年記念碑」のみ。あと近くには「○月○日(※訪問日の2週間前)にクマが出没しました」と書かれた警告の看板も見受けられる。
徒歩3分ほどで視界が開け、広大な原野が広がる。この抜海原野は泥炭層もある沖積平野(昭和40年7月・北海道立地下資源調査所資料より)とあって、農地として大規模に活用されている様子もない。
15分ほど歩くと、日本海に沿った海岸線のはるか向こうに港と集落が見えてくる。ここが抜海駅最寄りの抜海地区(字バッカイ・クトネベツ)であり、駅までの距離は約2.5kmほど。周辺の道路が未整備だったころには駅が稚内市中心部への玄関口であったものの、家々のガレージに軒並み1~2台はクルマが停まっている状況では、日常的に鉄道を利用してもらうのは、そうとうに難しいだろう。
なお抜海は、眼の前の海からはニシン、ナマコ、タラバガニ、鮭などが豊富に獲れる「漁港の街」として知られている。特に単価が高いナマコの漁獲高が好調とあって、稚内市からも「昨今の廃業や新規着業の動向から、将来的にもおおむね現状のまま推移すると考えられる」と評価され、防砂堤や浚渫による港の維持に、しっかりと予算が投入されているようだ。
歴史的に見ても、抜海集落の発展は漁業ありきで、暖かい季節のみ漁師が住んでいたところに、明治初期あたりから定住者が増加。いまの抜海地区が形作られていったという(稚内市史より)。
また抜海漁港は海に突き出るように拓かれ、南側から流れ込む暖流のおかげで、冬でも流氷に閉ざされない「不凍港」でもある。昭和末期ごろには利尻島・礼文島への貨物船が発着し、稚内港が氷で閉ざされた際にはフェリーが抜海港に発着することもあったようだ。
「漁業」「バックアップ港(不凍港)」といった役割を持つ抜海は順調に発展し、1899年(明治32年)には小学校が開校。鉄道も1912年(大正元年)には音威子府駅、1922年(大正11年)には後の天北線経由で稚内駅(現在の「稚内港郵便局」近辺)へと順調に到達。1924年(大正13年)6月、ようやく抜海駅を含む稚内駅~兜沼駅間が開業を迎える。
鉄道ルートは音威子府から北側は内陸の天塩川に沿い、海側のサロベツ原野を避けて内陸に回り込んでおり、海沿いの抜海集落にわざわざ曲げるという選択肢はなかっただろう。こうして、集落から極度に離れた抜海駅が開業、抜海集落の玄関口として歴史を重ねてきた。
地元の利用者は「高校生、高齢者」。乗合タクシー転換もやむを得ない事情
しかし、かつて800人以上が定住していた抜海地区も人口100人を切り、もはや交通機関の維持そのものが難しい。
そのなかで、完全予約制の「抜海・クトネベツ地区乗合タクシー」試験運行がすでに始まっている。現状では無料だが、抜海駅廃止後の2025年4月からは300円~500円が必要となる予定だ。各地区を経由するため所要時間は鉄道の倍以上かかるものの、代わりに駅から遠い稚内市街地の「稚内禎心会病院」「市立病院」「西條(スーパー)」などに乗り入れるうえに、何より抜海地区をちゃんと経由してくれる。
抜海地区で移動手段を必要とする方にとっては、2.5kmも駅が離れている鉄道よりは、乗合タクシーがありがたいという方も多いだろう。稚内市議会でも長く議論がなされていたようで、最終的には「代替交通の利用者は高校生・高齢者、観光客は、その枠組みのなかで利用していただく」(2024年3月・稚内市議会 工藤広市長の答弁より)という結論にいたったようだ。
抜海駅は「年間100万円で維持できる観光コンテンツ」。今さらながら、廃止の不思議
地元の人々に利用されなくなった抜海駅だが、幾度となく改築のうえで維持されてきた木造駅舎は、以前として観光価値が高い。観光シーズン以外に計測した利用人数は「1日利用者2.2人」ではあるものの、稚内市が2022年10月の1か月間にわたって調査したところ、駅を訪れた人々は「学生8人、住民21人、旅行者290人」であったという(令和4年度・稚内市地域公共交通活性化協議会 事業成果報告書)。
この統計は「クルマで抜海駅を訪れた」「片方向だけ利用して、ツアーバスで帰った」訪問客も含まれており、駅の利用には必ずしも結びついていない。しかし、抜海集落の中心部にあるゲストハウスは年間150~200人の利用者がいて、「クラブツーリズム」でも宗谷岬・北防波堤ドーム・オロロンライン(海沿いの道道・国道)の景色などと抱き合わせたツアーでも、この駅への訪問がセットに含まれる。
さらにこの駅は、「薄汚ねぇシンデレラ!」「この子はRHマイナスAB型です」などの名台詞で知られるテレビドラマ「少女に何が起ったか」や、映画「北の桜守」ロケで使用された経緯もあり、いまも「聖地巡礼」訪問者がいる。「稚内市に日帰り」できる地域は限られるため、抜海駅への訪問は宿泊・食事といった市内消費を伴う、いわば「駅の機能も兼ねた一大観光コンテンツ」でもあるのだ。
ただ、抜海駅は生活利用者の少なさからJR北海道から廃止提案を受け、2021年度は稚内市が維持費用を払うことでいったん存続。稚内市は「21年度約74万円、22年度約54万円、23年度約90万円」(2024年7月5日・読売新聞)といった維持費用を負担してきたものの、市が2024年度限りで拠出を打ち切ったことから、抜海駅は廃止にいたった。
一方で、「観光化した秘境駅の存続」に関しては現行のクラウドファンディングだけでなく、道内なら豊浦町(室蘭本線・小幌駅)、和寒町(宗谷本線・塩狩駅)などのようにふるさと納税活用の事例もある。ましてや、「総額20億円強(全国1781自治体中95位、道内178自治体中13位)というふるさと納税を集める稚内市なら、Webサイトの隅に記述しておくだけでも、将来の修繕費用も含めた出資は集まるのではないか(現状ではまったく記述なし)。
全国では、利用者が1日十数人のローカル線を維持するために、数億円の費用負担で紛糾する事例も見られるが、抜海駅の場合は「鉄路の維持」ではないので100万円程度で済む話だ。このレベルのコンテンツ創出に億単位の予算や、観光庁の「先進的な観光地創出のためのモデル事業」補助獲得に血道を挙げる自治体も多いなか、既存の駅舎と地元の方々の協力(無償での清掃による維持費用の軽減を交代で行なっているという)で維持できるコンテンツを、駅廃止によって実質的につぶしてしまうのは……。
ローカル線に厳しい目線を向けることも多い筆者でも「もったいなさ過ぎる!」と感じてしまう。むしろ、既存の乗合バスの片道利用を促する形で、駅と乗合バスを両立させてもよいくらいだ。
日本最北端・人口約3万人の稚内市は、JR稚内駅前に道の駅・子育て支援施設・映画館・高齢者向け施設などを集約するなど、コンパクトシティ政策で実績を挙げている。ただ、必要以上に郊外に冷淡な傾向もあり、コンテンツの価値を見出せないとこんな結末に……。100年の歴史がある抜海駅を惜しむとともに、腑に落ちない疑問も消えない。
そんななか、抜海駅はまもなく消えゆく。