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新紙幣の原料9割が……いまは人口1人、高知の秘境で解き明かす「なぜミツマタ国内調達は困難になった?」

左が旧紙幣、右が新紙幣

日本国紙幣の原料「ミツマタ」、国産は何割を占める?

 2024年7月に発行された新紙幣は、もう手に取られただろうか。国立印刷局の各工場で印刷されている1万円札、5000円札、1000円札の新紙幣(日本国紙幣)。さて、主な原料となる「ミツマタ」(三椏)は、どこで生産されているのか?

 正解は「ほとんどがネパール、残りは国内各地(主に岡山県・徳島県)」だ。もちろん、もともとは国内で生産していたものの、ここ20年ほどですっかりシェアは逆転。紙幣に使われるミツマタの使用総量72トンのうち、国産のミツマタは6トンにとどまっているという(2016年現在)。

 普段なにげなく使っている紙幣は、財布のなかや券売機で激しくもまれ、果てはポケットに入ったまま洗濯……といった手荒い扱いに耐え、千切れずに流通している。繊維質の強いミツマタを用いているからこそ、いわば“たかが紙切れ”が、「すかし」などの偽造防止の技術を入れつつ、強度を保てるのだ。

 昭和30年代~40年代ごろまでは、原料となるミツマタを育て、国立印刷局に供給する地域が中国・四国地方を中心にいたるところに存在していた。しかし現在、国内でのミツマタ生産は長らく減少が続き、「日本国紙幣」の原料のほとんどを、国内で調達できなくなっている。

 紙幣の原料・ミツマタは、なぜ国内生産でまかなえなくなってしまったのだろうか。その謎を探るべく、かつてはミツマタの一大産地であったという、高知県の“平家の落人の郷”に足を運んだ。

かつてのミツマタ産地は「平家の落人の郷」天空の集落は、今や人口1人

椿山に向かう道路は険しく、落石やがけ崩れも頻繁に起こる

 県都・高知市から列車で1時間、路線バスに乗り継いで30分、さらに週1本・予約制のコミュニティバスに乗り継いで1時間以上。かつてミツマタの一大産地であった高知県仁淀川町・椿山(つばやま)地区は、900年前の「源平合戦」に敗れた落ち武者が拓いたという、いわゆる「平家の隠し里」の一つだ。

 里の存在を源氏に知られないために、「箸や椀を決して川下に流さない」「声を出す鶏や犬は飼わない」といった独特の風習のもと、長らく身を潜め暮らしていたという。

終点・椿山に到着したコミュニティバス。週1往復のみ・予約制で、利用はきわめて困難だ

 椿山は仁淀川の中心部から約20kmで高低差500m。坂道をうねうね登る道路のナナメ上には脆い崖が突き出し、「ここは隠し里だ、何をしに来た?」と来訪者を威嚇するように頭上をふさぐ。「椿山行きのバスの予約が入ったがぁは、2年ぶりぜよ!」「この辺りは落石もがけ崩れも多いから、車内にスコップとツルハシ常備よ。見てみ?」と興奮気味に話す運転手さんと盛り上がっているうちに、目の前の山肌一面に、椿山の家並みがパッと見えてきた。

山に囲まれた椿山集落。かつては奥の傾斜地にミツマタ畑が広がっていた

 椿山の傾斜地には堂々とした瓦葺の人家が、サッと数えただけで30軒以上も立ち並ぶ。家々は人がようやく通れる山道や階段で結ばれ、集落はまるで迷路のようだ。なかには2階が崖に突き出して展望台のようになっている建物や、小さな雑貨店のような建物も。コンパクトな集落ながら、店や旅館のようなものも、かつては存在したのだろう。

 集落から離れた場所には杉林が広がり、その合間には石垣と段々畑の跡のようなものが見える。かつてはこの一帯にミツマタが植えられていたというが、今は何の面影も残っていない。そして30軒以上の家がある集落にも森にも、人影が見えない……それもそのはず。源平の時代から900年の歴史があり、かつてミツマタ栽培でにぎわった椿山集落は、今は「人口1人」となっているのだ。

 ほか、中四国の山間部にまんべんなく点在していたミツマタの生産地は、椿山地区のように著しく衰退してしまった場所も多い。なぜ椿山は、そして中四国の中山間地域は、紙幣の原材料という手堅い需要がありながら、ミツマタ栽培を辞めてしまったのか。まずは、ミツマタが紙幣の原材料として用いられ始めた、明治時代の初期にさかのぼって検証してみよう。

藩札の乱発・偽造が相次いだ江戸時代。明治政府はなぜ「新札発行」を急いだ?

ミツマタの花は独特の色合いで美しい(提供:仁淀川町観光協会)

 江戸時代の貨幣は藩ごとの紙幣(藩札)や銅貨しかなく、宝暦年間の秋田藩のように藩札乱造で地域経済が混乱に陥ったり、偽札が多量に出回ることも。1868(明治元)年に樹立した明治政府や大蔵省は各地の藩札の収拾に数年を費やしたこともあり、偽造されずに十分な量を製造できる、全国共通の硬貨・紙幣の開発を急いだ。

 しかし紙幣の原料として想定していた「ガンピ(ジンチョウゲ科の低木)」は栽培の技術がなく、かわって山間部の痩せた土地でもしっかり育ち、苛性ソーダを使用した品質向上の技術が発見されたミツマタが紙幣の原料として採用されたという(国立印刷局季刊誌「ファイナンス」559号より)。1877(明治10)年に国産第1号の洋式紙幣「国立銀行紙幣」を発行、4年後にミツマタ全面使用の「改造紙幣一円券」を発行して以降、紙幣としての強度確保、偽造防止の技術の確立に向けて試行錯誤を繰り返す。

 また、紙幣の原料となるミツマタを安定して調達するために、もともと和紙の原料としてミツマタを栽培していた地域を中心に「局納」と呼ばれる買取制度が始まり、国立印刷局の出先機関「ミツマタ調達所」(高知県・岡山県・徳島県など)、「ミツマタ倉庫」(岡山県真庭市久世・島根県津和野町日原など)が設置された。

椿山は「10年でミツマタ売上20倍」! 歓楽街や鉄道を呼び込んだ“ミツマタ景気”

旧・池川町は“ミツマタ景気”もあって、仁淀川支流・土居川沿いの崖まで宅地化、商業地化が進んだ

「ミツマタ景気」の到来は、もちろん椿山地区も例外ではなかった。仁淀川町の前身である吾川郡池川町(当時は池川村)の資料によると、1897(明治30年)に2117円であったミツマタの売り上げ(椿山地区を含む村全体分)は、その後5年間で1万4911円、さらに5年後の1907(明治40)年には4万944円と、金額ベースで20倍近い急成長を遂げている。

 ミツマタ栽培なら耕作地に水を引き込む必要はなく(むしろ水はけがよくないと育たない)椿山のように日当たりがよくない、水田や畑作に向かない傾斜地の方が、生育には最適だ。ミツマタ栽培によって、山間部の各地域は「国立印刷局」「紙幣の原料」という抜群に安定した取引先を得たのだ。

 実際に農家から買い取りを行なう仲買人は、「局納」の基準をクリアする良質のミツマタ確保のために多量の現金を持ち歩き、アワ・ヒエや大豆の輪作や物々交換で生計を立てていた地域に、多額の現金をもたらした。長らくほかの集落と途絶していた椿山には行商人が行き交うようになり、ほかの地域の民家が茅葺きであった時代に、椿山だけ瓦葺きの家が立ち並んでいたという。

 取材でお話を伺った近隣の集落の方からは「“つば”(椿山)の人らぁは、使うところもないからおカネがあってねぇ」という言葉が何度も聞かれた。明治初期までは小さな宿場町であった池川町の中心部は、椿山をはじめとするミツマタ農家の人々や、金遣いのよい仲買人によって、飲食店・酒場・劇場・遊郭などが立ち並んだという。

 今はすっかりミツマタが取引されなくなったものの、今でも池川は川沿いの狭い土地にびっしりと商店街が張り付き、往時のにぎわいを偲ばせる。

仁淀川は中流域でも十分な川幅があり、船運に向いていた
終点・伊野停留所に停車する「とさでん交通」車両。かつては和紙の輸送に活躍した

 また町を含む各地のミツマタは仁淀川によって運ばれ、川船の拠点であった越知町には「この山間部に!」と驚くような堂々たる構えの旅館が、今でも残る。なお、ミツマタの安定供給によって特産の「土佐和紙」も製造量・技術ともに向上し、現存するなかでは日本最古の路面電車(1904年/明治37年開業。現在の「とさでん交通」)も、和紙の輸送手段として開業、一大産地である伊野への延伸をいち早く果たしている。

 高知県に限らず、ミツマタ栽培はそれまで細々と生きてきた中四国の山間部の暮らしを変え、道路やインフラ整備のきっかけともなった。にもかかわらず、なぜミツマタ栽培は、各地で終息してしまったのか。

ミツマタの需要を奪った「100円玉」「スギ林」そして「高齢化」

1957年に100円玉が発行された際には、ミツマタ生産地域での反対の声もあったという

 1945(昭和20)年の終戦後に、ミツマタ栽培が徐々に下火になった原因は「紙幣への需要低下」「ミツマタ以外への転作」「過疎化・高齢化による生産者減少」に集約される。

 まず、アルミ・黄銅・青銅などを軍需用資材に回す必要がなくなったたこともあり、終戦後に低額の硬貨が次々と発行されていく。なかでも、1957(昭和33)年に発行された100円銀貨は従来の100円札に取って代わり、紙幣やミツマタの需要を奪っていった。

 また戦後の復興でスギ・ヒノキなどの需要が急増、特に昭和30年代中盤には「毎月4~5%ずつ価格上昇」(昭和36年度 内閣府年次経済報告より)というすさまじい“木材景気”が続き、椿山でもミツマタの間にスギの苗木を植え、最後のミツマタ収穫とともに植林に転換する家が相次いだという。

 かつ、ミツマタを印刷局向けの「局納」として出荷するには「3年育てて大窯で蒸して、黒皮を手作業ではいで天日干し、繊維の有効成分を検査、納品」というすさまじい手間がかかるが、スギの植林は枝打ち程度の手間で済むうえに、収入もよい。また高度成長期の好景気のなか、ミツマタよりも2倍~3倍は稼げたという、土木作業員という選択肢もあった。

 買取価格の維持や保護政策でミツマタ調達を維持するという発想も、このころにはなかった。何よりも街に出た方が稼げるため、若者も山を出てしまい、残された生産者も高齢化によってミツマタ栽培を止めてしまう。林業や土木作業員に転向した人々も、木材景気の終焉や地域経済の低迷で、今さらミツマタ栽培を手掛けることもできず、街に出てしまう……。「紙幣の原料」という手堅い需要があったところで、各地でミツマタ栽培が下火になるのは当然の流れだったといえるだろう。

 2019年の時点でネパール産など外国産の買取価格は30kgあたり4万円、国産は採算が合わない状態で出荷して10万円だという。国立印刷局も安定調達を考えて「一定量の国産ミツマタ買取の維持」「苗の提供や農業指導」などの施策をとってはいるものの、キャッシュレス決済の普及もあり、紙幣の需要はあまり増えそうにない。ただ岡山市・徳島県三好市にミツマタ調達所が残っており、国産のミツマタ栽培はこれからも細々と続きそうだ。

ミツマタはなくとも集落は健在! 中居くんも訪れた椿山集落

椿山地区の氏仏堂と巨木。不思議な言い伝えを数々聞いたが、ここでは触れない

 需要の低下とともにミツマタ栽培をやめてしまった集落のなかでも、椿山地区は独自の存在感によって、今も多くの人々を惹きつけている。

 今は周囲が植林ばかりになってはいるものの、かつてミツマタが植えられていた石垣はわずかに残り、昭和末期までは伝統的な焼畑農業で農地を守り続けていたという。筆者が何度か訪れたうち、2018年には地区で唯一の住民の方とばったり遭遇してお話をさせていただいた(その様子はイカロス出版「サイハテ交通をゆく」に収録)が、この方の転出でいちど無住になり、その後は地区出身の方がお1人帰郷されて、今も人口1人の状況が続いているという。

 椿山出身の方々の結束力は強く「台風で木が1本倒れた」と聞くや、数人の出身者がわれ先にと駆けつけ、撤去してくれたそうだ。また人口1人でも空家や氏仏堂、夕方に鳴るサイレンはしっかり管理され、年1回の祭事「虫送り」には、多くの出身者が駆け付けるといい、この地は「人口1人なのに、生活の匂いは色濃く残る」という不思議な空間でもある。ミツマタの栽培が途絶え、人口1人になっても、椿山は人々の絆で結ばれた「集落」であり続けているのだ。

 そして、2008年には映画「私は貝になりたい」(福沢克雄監督・中居正広さん主演)のロケが椿山で行なわれ、その不思議な景観が生かされた。ロケに立ち会った方によると「気を遣ってみんなに話しかけてくれて、中居くん本当にいい人だった!」とのこと。立地と景色から「天空の集落」とも呼ばれる仁淀川町(旧・池川町)椿山は、めったなことではたどり着けないものの、その存在をもう少し知られてもよい場所だ。