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兵庫県知事「川を丸ごと売ります!」→三角州にできた甲子園球場と住宅街。球場づくり・街づくりはどう行なわれた?
2024年8月16日 12:00
100周年の甲子園球場。かつては「三角州と川」だった?
高校野球の聖地、ならびにプロ野球「阪神タイガース」の本拠地として知られる「阪神甲子園球場」(兵庫県西宮市)は、1924(大正13)年8月の開場から100周年を迎えた。
現役の球場としては日本最古のスタジアムのメモリアルイヤーとあって、往年の名選手同士の対決やスペシャルライブを楽しめる「KOSHIEN CLASSIC SERIES」、人気野球漫画とのコラボレーションなどが、連日のようにニュースをにぎわせ続けている。
甲子園球場へのアクセスは、大阪・梅田から十数分、阪神本線「甲子園駅」を降りてすぐ。この好立地を、どうやって手に入れたのか……実は、もともとこの場所は「ただの三角州・低湿地」であり、球場を取り囲む2本の道路も、もともとは川だったという。
阪神電気鉄道はこの一帯を兵庫県から丸ごと買収、川の跡地にそのまま路面電車を敷設したうえで、球場や住宅街をこのエリアに建設した。100年が経った現在、甲子園球場は高校野球・プロ野球の聖地として根付き、周囲に広がる街は「駅の1km圏内で人口4.5万人」という宅地として発展。球場・住宅街が一体となった街づくりを成功させたからこそ、阪神電鉄は「スポーツビジネス」「不動産事業・住宅事業」という事業の柱を得て、小林一三率いる阪急電鉄に対抗できる企業体力を持ち得たのだ。
さて、阪神電鉄はなぜ川と三角州を買い上げ、巨大球場建設と宅地造成を行なったのか。そもそも、なぜ兵庫県は「川を丸ごと売却」という手段に出たのか。100年前に遡り、甲子園球場ならびに「西宮市甲子園」という街や住宅街の歴史を追ってみよう。
兵庫県の有能知事「河川敷改修の費用のために、川を売ります!」。手を挙げた阪神電鉄
いまの甲子園球場の一帯に流れていた「枝川」は、いま5kmほど東側に流れている武庫川の分流であった。さらに、枝川は現在の阪神本線・甲子園駅の南側で「申川」(さるがわ)と分かれ、2つの川の三角州が、のちに甲子園球場となる。
2本の川は、土砂の堆積で河道が地面より高い「天井川」となっており、武庫川の増水で水が流れ込むと、たちまち一帯を水没させるという、典型的な“暴れ川”であった。なお、阪神本線は球場建設の19年前(1905年/明治38年)に開業したものの、当時はこの周辺を「枝川橋梁」でひとまたぎしており、もちろん駅はなかった。
変化が訪れたのは1920(大正9)年のこと。県が堤防を建設し、武庫川本流を拡張するという大規模な河川改修を決定したのだ。
当時の有吉忠一・兵庫県知事は、のちに横浜市長・神奈川県知事として、国際港・横浜港の拡張や多摩川堤防の建設などを成し遂げ、歴史にその名を残している。しかし有吉知事の力をもってしても、改修にかかる総額310万円(現在に換算して十数億円)はおいそれと拠出できるものではなかった。ここで発案されたのが、本流の改修で不要となる「枝川・申川の廃川・売却」という奇策だったのだ。
阪神電鉄はこの川を「周辺の土地74ヘクタール込みで410万円」という高値であらかた買い上げ、のちに球場、住宅街となる一帯は阪神電鉄のものとなる。
同社が買収に投じた410万円という費用は、いまの近鉄の前身・大阪電気軌道を倒産寸前に追い込んだ「生駒トンネル」の工事費用(270万円)をはるかに上回る。明らかに企業体力に見合わないこの投資は、「狐か狸の巣みたいなところをえらい金で買うて、阪神さんはどないするつもりや?」(「阪神電気鉄道100年史」より)と、散々に陰口を叩かれたという。
かつての低湿地→宅地化、完売! 秘策は「路面電車敷設」「梅田・三宮への電車賃タダ」
甲子園の開発を先導した阪神電鉄の技術長・三崎省三は、アメリカへの滞在経験をもとに武庫川や河口エリアをニューヨーク・ハドソン川やアッパー湾に見立てて、阪神本線の南側にはコニーアイランドにあるような遊園地や「ポロ・グラウンズ」(ニューヨーク・ジャイアンツの当時の本拠地)のような球場、そして北側に住宅街という壮大な構想を描いた。
ほんの数年前まで川と低湿地だった土地が、ここから数年で「甲子園球場」「甲子園の住宅街」に変わっていく。
甲子園エリアの住宅街には、甲子園球場や甲子園駅まで気軽に乗れる路面電車「阪神甲子園線」が、1926年に開業した。とはいっても、もともと旧・枝川の河道には土砂搬出用の軌道が敷かれており、これを幹線道路(現在の甲子園筋)と併用軌道にしたものだ。
高速鉄道・路面電車をどちらも使えて、大阪・神戸のどちらにも近い甲子園エリアが宅地として人気が出ないわけはなく、さらに阪神電鉄が「住宅を買えば、甲子園駅から大阪・三宮方面いずれかの電車運賃を1年間無料」という大盤振る舞いを打ち出したこともあって、宅地はことごとく完売。阪神電鉄は周囲の土地を買収し、街を拡張しては、また完売を繰り返す。
ライバルである阪急電鉄が「甲陽園」などの宅地開発で勢力を広げるなか、阪神電鉄は甲子園の街づくりによって、「電鉄系デベロッパー(不動産業者)」としてのノウハウと、莫大な利益を得ることができたのだ。
「甲子園が満員になるまで10年はかかる」。まさかの“4日目の早実戦で超満員”
同時に阪神電鉄は、2本の川や三角州にたまっていた良質の川砂利を活用して、広大な野球場の建設にかかる。当時から夏の高校野球(全国中等学校優勝野球大会)は、阪神電鉄が借り受けていた「鳴尾運動場」で開催されていたものの、5000人も収容できないという客席はあまりにも手狭で、1923年には兵庫・甲陽中-京都・立命館中の一戦で満員の観客がグラウンドにあふれ出して試合中断、という事態も起きていた。
もともと高校野球の開催も、ライバルである阪急電鉄が準備した豊中球場の貧弱さを突き、阪神電鉄が誘致したものだ。スポンサーであった大阪朝日新聞からは抜本的な安全対策を求められており、巨大なスタジアムがないと他球場、もしくは関西以外(第1回の「春の選抜」は名古屋・八事グラウンドで開催された)に高校野球の開催地を取られてしまう可能性もあったのだ。
とはいっても、「座席5万人、立ち客含めて8万人収容」とされた球場は「外野席まで観客が入るのに10年はかかる」と言われるほど過大なハコモノの扱いを受け、三崎省三が社内の反対を押し切ってようやく建設にいたったという。着工から昼夜を問わない突貫工事が続き、着工から5か月も経っていない1924年8月1日、のちに「甲子園球場」と改名される「甲子園大運動場」が完成した。
2週間後の8月15日から夏の高校野球が開催されたものの、第1試合の静岡中-北海中から客の不入りが続き、三崎省三は失望して現場に顔を出さなくなったという。しかしほどなく観客は増加し、ついに4日目の早稲田実業-神港商業戦では、球場初となる満員を記録する。ここまで早期に満員となることは誰も予測していなかったようで、阪神電鉄の各駅は「甲子園大運動場は満員、駅で降りても入場できません」と手書きで張り出し、対応に追われたという。
甲子園は「甲子園球場」だけじゃない! 甲子園・街歩きのススメ
阪神電鉄が踏み切った「巨大球場の建設」「周囲の宅地開発」は、明らかに当時の同社の企業体力に見合わないものであった。しかし、甲子園球場の建設は「春の選抜高校野球誘致」「プロ野球球団の創設(1935年)」につながり、脈々と続く「阪神タイガース」というスポーツビジネスにつながっていく。
そして、巨大な住宅街へと変貌を遂げた甲子園エリアからの通勤輸送、そして甲子園球場や「ららぽーと甲子園」(遊園地「阪神パーク」跡地)へのイベント輸送は、ほぼ同経路を走る阪急神戸本線・JR神戸線にほとんど流れない顧客となり、鉄道事業の手堅い下支えとなっている。いまや甲子園駅の乗降客数は西宮駅・尼崎駅を上回り、阪神本線の途中駅で乗降客数第1位を記録しているのだ。
「410万円(約20億円)を投じて川を買収、球場と宅地を建設」という経営判断上の賭けの成功は、その後100年にわたって阪神電鉄を支えてきたと言っていいだろう。
一方で、かつて枝川が流れ、路面電車が走り抜けていた道路は、川や鉄道特有の緩やかなカーブを描き、沿線には点々と松並木も残っている。また阪神本線が道路をまたぐ橋には、今でも「枝川橋梁」の表記が残されるなど、100年前の痕跡は、探せば結構あるのだ。
高校野球や阪神タイガースの試合で「甲子園球場」に足を運ぶ前に、かつて川と低湿地だった頃に思いをはせつつ、甲子園の街をぶらぶらしてみるとよいだろう。この街は河道だった部分が広い空間となっているせいか、吹き抜ける風が心なしか気持ちよい。