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パラオ・手つかずの自然、歴史遺産と586の島々が織りなす美

戦跡がそのまま保存されているペリリュー島

天国に一番近い島、パラオに行ってきました

 皆さん「パラオ」を訪れたことはありますか?

 天国に一番近い島、ダイビングスポットというイメージが代表的なパラオは、歴史遺産と手つかずの自然が残ります。2012年にはサウスロックアイランドが世界自然遺産に登録され、まさに現代の楽園と言っても過言ではありません。神戸の真南3000kmに位置し、人口は約2万人。500以上の島々が連なります。

パラオ略図(提供:パラオ政府観光局)

 年間平均気温は28℃で時差はなく、歴史的経緯からパラオ語では日本語の単語がそのまま使われている言葉も多数あります。

 美しい景観と文化、歴史に触れるパラオ5つの旅、まずは「ペリリュー島」からスタートします。

パラオの玄関口「コロール空港」

 日本からパラオには早朝に到着する経由便で移動するのが一般的ですが(トップシーズンには直行便も運航されています)、ツアー会社やホテル側もそれに対応した送迎・宿泊プランを用意しているので大丈夫。夜遅いので送迎バスで宿泊先「パラオ・ロイヤル・リゾート」に早速向かい、お風呂に入って一休み。すっかりリフレッシュして目覚めると、まさに抜けるような青空が広がっていました。

パラオ空港に降り立つと、「アバイ」と呼ばれる伝統建築をイメージした三角屋根が迎えてくれます
深夜便での到着にも関わらず、笑顔の出迎えありがとうございます!!
空港ロビーへ降りると、すぐ正面にパラオ政府観光局のインフォメーションカウンターがあります
快晴の朝、ビーチ側から見たパラオ・ロイヤル・リゾートの外観。ホテル内の紹介はまたのちほど

 今回ペリリュー島ツアーでお世話になる「ロックアイランドツアーカンパニー」さんのオフィスは、パラオ・ロイヤル・リゾートから歩いてすぐの桟橋にあります。

 パラオでは各種アクティビティごとに州政府発行の許可証があり、購入資金は環境保護に役立てられています。ダイビングやフィッシング、そのほかパラオ滞在中に楽しむアクティビティに合わせて、まずはカウンターで許可証を購入します。

 場所によっては許可証の提示を求められることもあるので、パラオ滞在中は常に許可証を携帯することをお忘れなく。

パラオ・ロイヤル・リゾートから桟橋までは歩いてすぐ。気持ちのよい風が吹き抜けます
桟橋にあるダイビングショップ「ブルーマリーン」でツアーの皆さんと初めまして
「Alii!」(アリー!=こんにちは、いらっしゃいませ)
今回のツアー行程に対応したロックアイランド許可証。旅行中は常時携帯が必要です
ペリリュー島をガイドしてくださった、ロックアイランドツアーカンパニーの平野雅人さん。情熱と使命感にあふれ、熱心に案内してくださいました

 ツアー専用ボートに乗船し、ペリリュー島に向けて出発です。見渡す限りの水平線に、次から次へと美しい島々が現われます。パラオには586もの島々がありますが、人が住んでいるのはわずか9島のみ。

 環境保護目的はもちろん、古来からの文化、言い伝え、宗教などを守るために観光客は近付くことが禁止されている島も多数あるそうです。

 およそ60分ほどのクルーズを楽しみ、いよいよペリリュー島に到着です。

出港すると、次から次へと美しい島々が目に入ります。それぞれに言い伝えなどがあり、知れば知るほど興味が沸いてきます
パラオのボートは基本的にハイパワー! 海上をカッ飛んでいきます
パラオの船長はベテラン揃い。潮の満ち引きで複雑に変化する海底を見きわめながら、余裕の操船です
パラオ政府観光局の芝村さん。行程をご一緒し、何度訪れても新しい感動があるパラオを心から愛しているのが伝わってきました

戦跡がそのまま残るペリリュー島

 先の大戦から73年が経過し、「ペリリュー島」と言われても、もしかしたらピンと来ない読者さんもいるかもしれません。

 第二次世界大戦の末期となる昭和19年(1944年)9月から11月にかけて、大日本帝国陸軍守備隊と米軍第81歩兵師団が熾烈な戦闘を繰り広げた激戦地、のちのフィリピン戦、硫黄島戦につながる地理的にも歴史的にもきわめて重要な戦いが繰り広げられた場所がペリリュー島です。

 ペリリュー港に着岸すると、「NIPPON MARU II」と書かれた真新しい船が見えました。パラオの中心部であるコロール島とペリリュー島は定期船「日本丸」が就航していましたが、2012年の大型台風被害で沈没してしまいます。その後、日本財団が新たにNIPPON MARU IIを寄贈し、2014年から定期路線が復活、人々の生活に欠かせないライフラインとなっています。

ペリリュー島に近付くと、浅瀬に自生するガジュマルの木が出迎えてくれます
まだ真新しい「NIPPON MARU II」は、コロール島とペリリュー島を結ぶ唯一の定期船として人々の暮らしを支えている
太陽光発電設備に掲げられていた、パラオと日本の友好プレート。学校、橋、クルマ、道路、いたる所で友好プレートを見かけます

 ペリリュー島には、当時「東洋一の滑走路」と言われた1200×1200mの十字形滑走路がありました。

 米軍第1海兵師団は偵察機でそれを発見し、2~3日あれば制圧できるであろうと考えたそうです。9月半ばに米軍がペリリュー島に上陸するまでに行なわれた事前爆撃は実に17万発。圧倒的な火力差からあっという間に制圧できるはずでしたが、大日本帝国海軍が長い時間をかけて構築していた洞窟要塞はペリリュー島の隅々にまで張り巡らされ、いわゆるゲリラ戦は2か月半にもおよぶ長期戦となりました。

 本稿は戦記物ではありませんので詳細は割愛しますが、世界最強の米軍第1海兵師団が、歴史上唯一「全滅判定」を受け全面撤退を余儀なくされた激戦、それがペリリュー島の戦いでした。

 国籍や所属を問わず、犠牲となったすべての御霊へ心から鎮魂の祈りを捧げます。

人々が住むペリリュー島へ、食糧や資源を運ぶ重要な拠点だったゲドムス島にかかる橋は、真っ先に爆撃されました。70年経ったいまなお原型をとどめる橋桁が、建築技術の高さを感じさせます
帝国海軍隧道隊が作った防空指令壕は長期間をかけとても頑丈に建築されていました。度重なる爆撃を受け、70余年を経ててもなお原型をとどめています
パラオでは「戦跡」をできる限り「当時の状態のまま」保存しており、戦車や戦闘機はもちろん、砲弾などもそのままの状態で朽ちている(※もちろん不発弾など危険なものは適宜撤去など対策が取られています)
食器、調理器具とともに、大日本ビール(現在のキリンビール)の空き瓶が今も多数残されていました。飢えに苦しむ兵士たちは洞窟からしたたる水をためて飲んだり、あるいは火炎瓶としてもビール瓶を使っていたそうです
現在、展示館として使用されている旧大日本帝国海軍の建造物は、想像を絶するほどの艦砲射撃と陸上攻撃を受けながらも原型をとどめ・上陸した米軍第一師団を驚愕させたそうです。鉄筋の数、砲撃の痕、熾烈さが覗えます

 大正11年(1922年)に建設された大日本帝国海軍ペリリュー島司令部。現在はジャングルの一部に飲み込まれそうになっていますが、当時はこれより高い建物はなく周囲のジャングルもなかったため、周囲の海を一望できたそうです。

 現代戦のような人工衛星監視や(デジタル)計算機などが一切なかった時代、優秀な見張り員と的確な弾道計算、そして的確な指揮。山の中腹に設置された迫撃砲からの射撃は、陸戦のみならず沿岸に停泊する米艦艇に対しても圧倒的な命中率があり、かの米軍第1師団にすら恐れられていたそうです。

 当時その場で必死に生き、そして散ったすべての英霊に対して鎮魂を捧げます。

大日本帝国海軍ペリリュー島司令部跡。当時これより高い建物は1つもなかったそうですが、大木に囲まれた様子が70年の歳月を感じさせます
「戦跡はそのままの状態にしておく」というポリシーのため、内部に立ち入り、2階に昇ることができるのもあと数年かもしれません。当時のモダンな建築が感じられます
当時「東洋一の滑走路」と言われた、1200×1200mの十字形滑走路の一部。いまでも現役の空港として利用されています
たわわに実ったヤシ&バナナ&南国名物プルメリアの花。自然の恵みで食べるものには日々困らないというのはありがたいですね。突然落ちてくるかもしれないので、ヤシの実には要注意!!
ガジュマルの樹に包み込まれようとしているこの建物は、1918年に建設された火力発電所。100年の歳月を経ても、建物はまだしっかりとしています
山の中腹に洞窟を掘り、そこに設置された迫撃砲
かろうじて原形をとどめている三菱重工製95式軽戦車。ペリリュー島の周辺は砂地で浅瀬が多く、機動力を優先するため装甲鉄板はわずか1.2cmの薄さで、約7.5トンと軽量。当時としてはめずらしいディーゼルエンジンを採用し、撃たれても炎上しづらいとは言うものの……
こちらは米軍のシャーマン戦車。装甲鉄板は4.0~7.5cm、重量は約30トン。日本の戦車が放つ砲弾が命中してもビクともしないため、キャタピラを狙って撃つ戦術が用いられました
島内には第二次世界大戦 ペリリュー記念館が整備され、日米双方のさまざまな展示品が収蔵されています。パラオを訪れた際は、ぜひペリリューの歴史も

 ペリリュー島で最も美しい「スカーレットビーチ」。またの名を、オレンジビーチ、あるいはブラッディビーチとも言われます。現在の透き通った碧い海からは想像もできないことですが、当時、このビーチは兵士たちの血で真っ赤に染まったそうです。

 スカーレットビーチには、日本の厚生労働省が1985年に建てた西太平洋慰霊碑があります。正面のエンブレムは「半眼」、半眼が見つめる先は真北=日本。もこもこ雲のデザインは、雲に乗って御霊が日本に帰れるようにという願いが込められています。

 天井には貯水タンクがあり、大雨が降ったあとにはシャコ貝の部分から水がしたたります。当時、飢えと渇きに苦しんだ兵士たちにとって何より貴重だった真水。「今は十分な真水がありますよ、安心してくださいね」という祈りが捧げられています。

米軍の上陸作戦が行なわれたスカーレットビーチ。島内で見学した戦跡と、青いビーチと、当時の光景を想像し、とても複雑な気持ちになりました
1985年に建てられた「西太平洋慰霊碑」は、ペリリュー島の最南端にあります。先の大戦において戦没した人々を偲び、平和への思いを込めてこの碑が建立されました
「半眼」は真北の方角、日本を見つめています
御霊が日本に帰ることができることを願ってデザインされた「雲」

 2015年(平成27年)、天皇皇后両陛下が戦没者追悼のため西太平洋慰霊碑をご訪問されました。

 天皇陛下が行幸された記念館は現在一般に公開されていて、観光スポットになっています。

現在は観光スポットになっている「2015年4月9日 天皇皇后両陛下ご休憩処」
内部には当時の写真が飾られ、自由に見学することができます
2015年に随行した際の記念写真を解説してくださる観光局の芝村さん
休憩所の近くには黄色いスクールバスが停まっていました。よく見ると、ここにも日本とパラオの友好の印が描かれています
パラオを走っているクルマはほとんどが日本の中古車。「常陸大宮市消防本部」と書かれた赤いトラックも

 ペリリュー島は北部にのみ人が住んでおり、南部は戦跡が残るジャングル地帯となっています。

 これには理由があり、当時激戦の指揮を執っていた中川州男(なかがわくにお)大佐(最終階級は大日本帝国陸軍中将)が、パラオ住民=民間人の犠牲を避けることに尽力し、戦闘地域の南部から島北部へ住民を疎開させたためだそうです。

 海が真っ赤に染まるほど、日米双方多数の兵士が犠牲になった痛ましい戦いでしたが、パラオ島民の犠牲者は1人も出なかったそうです。

 現在のわれわれがあるのは、間違いなく先人たちの犠牲があればこそ。

 美しい景色とともに、歴史の一部に触れ、祈りと感謝を捧げることができたペリリュー島での時間は、生涯忘れ得ないものとなりました。

休憩所の近くにある桟橋にも、日本とパラオ友好のプレートが掲げられていました
美しい海、美しい島。いつまでも、いつまでも、美しいままで
ありがとう!!

パラオ・ロイヤル・リゾートでくつろぎの時間

 今回は成田発、韓国の仁川経由便でパラオ入りしたので到着は深夜2時近くでした。到着日はお風呂に入って寝るだけなので、ホテルリゾートを楽しむのは実質2日目から。

 前半お世話になる「パラオ・ロイヤル・リゾート」は、真っ白な砂が印象的なプライベートビーチに面したリゾートホテルです。

 魅力的なビーチや島巡り、ダイビング、釣り、などなどアクティビティが豊富なパラオですが、ホテルリゾートも楽しみたいですし、あー、贅沢な悩み(笑)。

オーシャンビュー、ハーバービュー、ガーデンビュー、いずれも絶景が楽しめる抜群の立地に建つパラオ・ロイヤル・リゾート(提供:パラオ・ロイヤル・リゾート)
浅瀬も用意されたプールがあるので、小さな子供連れでも安心して楽しめます
バルコニーのデッキチェアに座って海を見ていると、アッというまに時間が経っていてビックリ
パラオの天気予報は天気図をもとに「だいたい晴れ」といった表示でした
パラオには「流しのタクシー」がいないので、ホテルやお店で呼んでもらうのが一般的。その際、事前に価格をしっかり交渉するのも大切です
こちらの「デラックスオーシャンルーム」をはじめ、リゾートらしい開放感にあふれる7タイプのお部屋が選べます
特に女性にうれしい「マンダラスパ」は予約必須の人気ぶり。海を眺めながら施術を受けられるのもポイントが高いですね

 さて! 次回はセスナ機からコロール島を一望し、イルカとたわむれ、パラオ料理にビックリ仰天!? お楽しみに!!

ツーリズムEXPOジャパン2018出展決定

 パラオ政府観光局は9月20日~23日に開催する「ツーリズムEXPOジャパン2018」に出展します。大洋州コーナー E-06へぜひお立ち寄りください!