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パラオ・手つかずの自然、歴史遺産と586の島々が織りなす美
戦跡がそのまま保存されているペリリュー島
- 提供:
- パラオ政府観光局
2018年9月18日 15:51
皆さん「パラオ」を訪れたことはありますか?
天国に一番近い島、ダイビングスポットというイメージが代表的なパラオは、歴史遺産と手つかずの自然が残ります。2012年にはサウスロックアイランドが世界自然遺産に登録され、まさに現代の楽園と言っても過言ではありません。神戸の真南3000kmに位置し、人口は約2万人。500以上の島々が連なります。
年間平均気温は28℃で時差はなく、歴史的経緯からパラオ語では日本語の単語がそのまま使われている言葉も多数あります。
美しい景観と文化、歴史に触れるパラオ5つの旅、まずは「ペリリュー島」からスタートします。
パラオの玄関口「コロール空港」
日本からパラオには早朝に到着する経由便で移動するのが一般的ですが(トップシーズンには直行便も運航されています)、ツアー会社やホテル側もそれに対応した送迎・宿泊プランを用意しているので大丈夫。夜遅いので送迎バスで宿泊先「パラオ・ロイヤル・リゾート」に早速向かい、お風呂に入って一休み。すっかりリフレッシュして目覚めると、まさに抜けるような青空が広がっていました。
今回ペリリュー島ツアーでお世話になる「ロックアイランドツアーカンパニー」さんのオフィスは、パラオ・ロイヤル・リゾートから歩いてすぐの桟橋にあります。
パラオでは各種アクティビティごとに州政府発行の許可証があり、購入資金は環境保護に役立てられています。ダイビングやフィッシング、そのほかパラオ滞在中に楽しむアクティビティに合わせて、まずはカウンターで許可証を購入します。
場所によっては許可証の提示を求められることもあるので、パラオ滞在中は常に許可証を携帯することをお忘れなく。
ツアー専用ボートに乗船し、ペリリュー島に向けて出発です。見渡す限りの水平線に、次から次へと美しい島々が現われます。パラオには586もの島々がありますが、人が住んでいるのはわずか9島のみ。
環境保護目的はもちろん、古来からの文化、言い伝え、宗教などを守るために観光客は近付くことが禁止されている島も多数あるそうです。
およそ60分ほどのクルーズを楽しみ、いよいよペリリュー島に到着です。
戦跡がそのまま残るペリリュー島
先の大戦から73年が経過し、「ペリリュー島」と言われても、もしかしたらピンと来ない読者さんもいるかもしれません。
第二次世界大戦の末期となる昭和19年(1944年)9月から11月にかけて、大日本帝国陸軍守備隊と米軍第81歩兵師団が熾烈な戦闘を繰り広げた激戦地、のちのフィリピン戦、硫黄島戦につながる地理的にも歴史的にもきわめて重要な戦いが繰り広げられた場所がペリリュー島です。
ペリリュー港に着岸すると、「NIPPON MARU II」と書かれた真新しい船が見えました。パラオの中心部であるコロール島とペリリュー島は定期船「日本丸」が就航していましたが、2012年の大型台風被害で沈没してしまいます。その後、日本財団が新たにNIPPON MARU IIを寄贈し、2014年から定期路線が復活、人々の生活に欠かせないライフラインとなっています。
ペリリュー島には、当時「東洋一の滑走路」と言われた1200×1200mの十字形滑走路がありました。
米軍第1海兵師団は偵察機でそれを発見し、2~3日あれば制圧できるであろうと考えたそうです。9月半ばに米軍がペリリュー島に上陸するまでに行なわれた事前爆撃は実に17万発。圧倒的な火力差からあっという間に制圧できるはずでしたが、大日本帝国海軍が長い時間をかけて構築していた洞窟要塞はペリリュー島の隅々にまで張り巡らされ、いわゆるゲリラ戦は2か月半にもおよぶ長期戦となりました。
本稿は戦記物ではありませんので詳細は割愛しますが、世界最強の米軍第1海兵師団が、歴史上唯一「全滅判定」を受け全面撤退を余儀なくされた激戦、それがペリリュー島の戦いでした。
国籍や所属を問わず、犠牲となったすべての御霊へ心から鎮魂の祈りを捧げます。
大正11年(1922年)に建設された大日本帝国海軍ペリリュー島司令部。現在はジャングルの一部に飲み込まれそうになっていますが、当時はこれより高い建物はなく周囲のジャングルもなかったため、周囲の海を一望できたそうです。
現代戦のような人工衛星監視や(デジタル)計算機などが一切なかった時代、優秀な見張り員と的確な弾道計算、そして的確な指揮。山の中腹に設置された迫撃砲からの射撃は、陸戦のみならず沿岸に停泊する米艦艇に対しても圧倒的な命中率があり、かの米軍第1師団にすら恐れられていたそうです。
当時その場で必死に生き、そして散ったすべての英霊に対して鎮魂を捧げます。
ペリリュー島で最も美しい「スカーレットビーチ」。またの名を、オレンジビーチ、あるいはブラッディビーチとも言われます。現在の透き通った碧い海からは想像もできないことですが、当時、このビーチは兵士たちの血で真っ赤に染まったそうです。
スカーレットビーチには、日本の厚生労働省が1985年に建てた西太平洋慰霊碑があります。正面のエンブレムは「半眼」、半眼が見つめる先は真北=日本。もこもこ雲のデザインは、雲に乗って御霊が日本に帰れるようにという願いが込められています。
天井には貯水タンクがあり、大雨が降ったあとにはシャコ貝の部分から水がしたたります。当時、飢えと渇きに苦しんだ兵士たちにとって何より貴重だった真水。「今は十分な真水がありますよ、安心してくださいね」という祈りが捧げられています。
2015年(平成27年)、天皇皇后両陛下が戦没者追悼のため西太平洋慰霊碑をご訪問されました。
天皇陛下が行幸された記念館は現在一般に公開されていて、観光スポットになっています。
ペリリュー島は北部にのみ人が住んでおり、南部は戦跡が残るジャングル地帯となっています。
これには理由があり、当時激戦の指揮を執っていた中川州男(なかがわくにお)大佐(最終階級は大日本帝国陸軍中将)が、パラオ住民=民間人の犠牲を避けることに尽力し、戦闘地域の南部から島北部へ住民を疎開させたためだそうです。
海が真っ赤に染まるほど、日米双方多数の兵士が犠牲になった痛ましい戦いでしたが、パラオ島民の犠牲者は1人も出なかったそうです。
現在のわれわれがあるのは、間違いなく先人たちの犠牲があればこそ。
美しい景色とともに、歴史の一部に触れ、祈りと感謝を捧げることができたペリリュー島での時間は、生涯忘れ得ないものとなりました。
パラオ・ロイヤル・リゾートでくつろぎの時間
今回は成田発、韓国の仁川経由便でパラオ入りしたので到着は深夜2時近くでした。到着日はお風呂に入って寝るだけなので、ホテルリゾートを楽しむのは実質2日目から。
前半お世話になる「パラオ・ロイヤル・リゾート」は、真っ白な砂が印象的なプライベートビーチに面したリゾートホテルです。
魅力的なビーチや島巡り、ダイビング、釣り、などなどアクティビティが豊富なパラオですが、ホテルリゾートも楽しみたいですし、あー、贅沢な悩み(笑)。
さて! 次回はセスナ機からコロール島を一望し、イルカとたわむれ、パラオ料理にビックリ仰天!? お楽しみに!!
ツーリズムEXPOジャパン2018出展決定
パラオ政府観光局は9月20日~23日に開催する「ツーリズムEXPOジャパン2018」に出展します。大洋州コーナー E-06へぜひお立ち寄りください!