旅レポ
大政奉還150年! 静岡市で食と徳川家の歴史を大満喫(1日目)
寿司屋密集地でマグロの希少部位を堪能し、徳川慶喜の足跡をたどる
2016年12月24日 00:05
幕末の最大のイベントであった大政奉還から150周年となる2017年を迎えることに対して、静岡市は「大政奉還150年! 家康から慶喜まで徳川文化タイムスリップの旅」と題したプレスツアーを行なった。これは、260年という長きにわたった徳川政権時代に浅からず関わってきた静岡を、もっと知ってもらいたいという思いから企画されたもの。
東京から新幹線「ひかり」で約1時間の距離にある静岡市は、2003年に旧静岡市と清水市が合併した人口が71万人強の政令指定都市で、葵区、駿河区、清水区の行政区で構成。総面積は1411km2、南は駿河湾から北は南アルプスまでの最長84kmにおよぶ形状だが、住宅密集地は静岡駅周辺の約100km2にとどまるため、とても自然豊かな土地と言える。
また、徳川家康が駿府城を築城するなど、徳川家にとっては故郷とも言える場所であり、大政奉還後も徳川慶喜が長きにわたり居住していた土地としての名残も数多くある。
2日間にわたったツアーだが、1日目は寿司屋密集の地、静岡市でマグロを堪能したのち、徳川慶喜の足跡をたどり、最後は静岡おでんで締めるという日程となった。
“見て、食べて、学べる”日本の食文化「寿司」のミュージアム
海の幸山の幸に恵まれた静岡には、お茶やワサビなど日本一と言える食材が数多くあるが、意外と知られていないものに、冷凍マグロの水揚げ高が日本一というのがある。冷凍ではないものも含めた約1/3のマグロの水揚げを、静岡市清水港で占めている。そのマグロを漁船1隻と契約し丸ごと買い上げ、提供してくれる「バンノウ水産」での昼食となった。
丸ごと買い上げることで提供が可能となった希少な部位と、定番の刺身で構成された「浜名湖産青海苔を醤油に溶く“静岡流”豪快八種盛り定食」(2354円)は、めばち鮪赤身、めばち鮪中とろ、袖長鮪、めばち頭肉、めばちほほ肉、ネギトロ、サーモンネギトロ、びんちょうネギトロの8種類と鮪あら汁となっており、昼食として食べるには量も金額もかなりボリュームのある内容となっているが、鮮度も質も高いこの定食を東京で食べることができたとしたら、かなりの金額になることは間違いないだろう。
マグロ一船買い問屋 バンノウ水産
所在地:静岡市清水区入船町13-15 エスパルスドリームプラザ1階
営業時間:11時~21時(ラストオーダー20時30分)
定休日:無休
アクセス:JR清水駅から無料シャトルバスで約10分/東名清水ICからクルマで約10分
TEL:054-355-3500
Webサイト:マグロ一船買い問屋 バンノウ水産
1999年に清水港開港100周年を記念して作られたエスパルスドリームプラザ内には、昼食をとったバンノウ水産を含めて8件の寿司屋が軒を連ね、日本で唯一と言われている、すしのミュージアム「清水すしミュージアム」がある。当時の清水市は人口約22万人に対して寿司屋が86軒もあり、寿司屋1軒に対しての人口比率はほかの市に対して群を抜いていた。現在では、多少減ってしまったものの、冷凍マグロの水揚げ高の多さや、湾としては日本一の深さがある駿河湾の豊富な水産物を考えるとミュージアムを作ってしまうくらい寿司屋が多かったのも当然のことかもしれない。
ミュージアム内にはすしの歴史や文化を学べる「鮨学堂」や、すしに関する企画展を催す「すし道場」、清水港が開港した当時の明治の町並みを再現した「すし通り」があり、もともと保存食だった押し鮨を、華屋与兵衛によって握り寿司へと進化していった過程や、屋台の様子など、日本の食文化のルーツとも言える寿司について、多くのことを学び感じ取ることができる。
「清水すしミュージアム」
所在地:静岡市清水区入船町13-15 エスパルスドリームプラザ2階
営業時間:11時~18時
入場料:大人300円、小人(4歳~小学生)200円
定休日:無休
アクセス:JR清水駅から無料シャトルバスで約10分/東名清水ICからクルマで約10分
TEL:054-354-3360
Webサイト:清水すしミュージアム
大親分清水次郎長が晩年経営した「末廣」
清水といえば次郎長と、すぐにその名前が出てくるくらい有名な大親分清水次郎長。その次郎長が晩年経営していた船宿「末廣」がエスパルスドリームプラザから歩いて数分のところに復元されている。1886年、次郎長が67歳のときに清水波止場に開業した「末廣」は妻である3代目おちょうの死後、売却や移築が繰り返されたため場所などが不明となっていたが、1999年に行なった調査の結果場所が特定され、当時の「末廣」のものだと思われる部材が清水鶴舞町に残っていた。
2001年にこの部材を使用して清水区港町に復元されたもので、当時の写真や書簡などが展示されており、2階部分には、次郎長が開いていた英語塾の様子などがディスプレイされている。
次郎長は少年期、負けん気が強く粗暴な振る舞いが多かった人物とされているが、15歳のときに米相場で巨利を得て以降、家業に精を出していた。20歳の頃、旅の僧から寿命は25歳までと予言され、そんなことならと賭博場へ出入りするようになる。実際には74歳まで生きていたので予言は外れたのだが、その予言がなければ大親分清水次郎長は誕生していなかったのかもしれない。
ただ、清水次郎長の名が世に知れ渡ったのは、任侠の世界に身を投じ、大政小政などの多くの子分を従えていたからではなかったようだ。江戸から明治へと移り変わる激動の時代のなか、捕吏から逃れる逃亡生活を続け、賭博やけんかに明け暮れていた次郎長に転機が訪れる。
1868年(明治元年)、江戸が東京となったこの年、駿府藩幹事役として山岡鉄舟が赴任し、治安維持のために次郎長を街道警護に当たらせた。おそらくは、その組織力と次郎長のカリスマ性を買ってのことだと思われるが、積年の罪科を免ぜられて帯刀を許されたことからも、山岡鉄舟の次郎長に対する期待の大きさが推測できる。実際にそのあとの働きはめざましいもので、江戸から避難してきた旧幕臣やその家族を炊き出しなどで救護するなど治安維持に奮闘した。
特に、「咸臨丸事件」と言われる、咸臨丸の補修のため清水港に停泊していた旧幕臣を官軍が攻撃した事件では、港内に浮遊する幕府軍の遺体に対し、死んでしまったら官軍も幕府軍も関係ないと、手厚く葬った。このことに感激した山岡鉄舟が「壮士の墓」という墓碑銘を送るなどして、その後親交が深まったとされている。
最後まで幕府軍として戦った榎本武揚が、1887年、清見寺に「食人之食者死人之事」と書かれた「咸臨丸乗組員殉難碑」を建てたことでも有名な事件であり、その除幕式のあと、「末廣」で関係者の慰労会が開かれている。
侠客であり町火消として有名な新門辰五郎はこの時期、徳川慶喜の護衛を任されていた。娘を慶喜の妾とするなど関係の深かった辰五郎は、慶喜が謹慎のため駿府に移り住んだとき、次郎長と知り合い慶喜の警護を依頼する。このことをきっかけに次郎長と慶喜の親交が深まり、晩年慶喜は「末廣」によく訪れたという。
その後も、清水次郎長は富士裾野の開墾や清水港の発展に尽力し、1893年に74歳の生涯を閉じた。英語塾を開いたり、さまざまな事業に力を貸すなどしていたが、本人はあまり裕福な暮らしをしておらず、復元された「末廣」には質で流れたと言われる“どてら”が展示されている。
「清水次郎長の船宿 末廣」
所在地:静岡市清水区港町1-2-14
営業時間:10時~18時
入場料:無料
定休日:月曜、12月29日~1月3日
アクセス:JR清水駅からバスで約6分「港橋」下車
TEL:054-351-6070
Webサイト:清水次郎長の船宿 末廣
徳川家康が幼少期を過ごした「清見寺」
「咸臨丸乗組員殉難碑」のある清見寺は清水区請興津清見寺町にあり、三保の松原が見える東海道(国道1号)に近い小高い山の中腹にたたずんでいる。約1300年前の天武天皇の時代に東北の蝦夷に対して関所が置かれ、清見関と呼ばれている。その傍らに関所の鎮護として仏堂が建立されたのが始まりされており、室町時代には足利氏の保護下に置かれ、駿河を領していた今川氏によって外護された。
戦国時代には戦国大名が入り乱れたため自然の要害となっていた清見寺は城として使用されたため多くの戦禍を被り、荒れ寺となったが、今川義元の後援により復興し、江戸時代には徳川家の庇護を受けて大きく前進した。
徳川家康が幼少期の松平竹千代の時代、今川氏の人質として駿府にいた頃、今川家軍師の臨済寺太原雪斎和尚から教育を受けており、人質という立場からはかけ離れた手厚い扱いを受けていたようである。
雪斎和尚が清見寺の和尚も兼務していたため清見寺に滞在することも多く、これらのことで家康は、のちの大御所となった時代までこのお寺を大切に扱っており、清見寺は三葉葵の紋を許され200石の朱印地を有し、家康手植えの「臥竜梅」や家康の三女静照院が佛殿の本尊釈迦弁尼仏と大方丈の大玄関を寄進したとからも推測でき、その意思は歴代将軍にも受け継がれ、歴代将軍の位牌や天武天皇の位牌などが安置されている。
明治時代には、徳川家ゆかりの寺社などが取り壊されていくなか、旧幕府から拝領した朱印地などは失ったものの荒廃を逃れた。1869年の東京遷都の際と1878年に明治天皇が休憩され、大正天皇が皇太子の時代に7度に訪れ、手前の海岸で海水浴などを楽しまれるなど天皇家とも関わりの深いお寺である。
また、清見寺に関わり深いものとして「朝鮮通信使」があり、朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。朝鮮通信使は、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって悪化した日朝関係を修復するために徳川幕府が行なった外交政策で、静岡市内には、朝鮮から徳川将軍の代替わりのたびに日本へ派遣された朝鮮通信使ゆかりの地が残されている。
なかでも宿泊施設として使用されていた清見寺には、漢詩や、それを木に彫り写した扁額などが数多く残されており、それらは静岡市の指定有形文化財となっている。
「清見寺」
所在地:静岡市清水区興津清見寺町418-1
参拝時間:8時30分~16時30分(16時受付終了)
参拝料:大人300円、中高生200円、小学生100円
アクセス:JR興津駅から徒歩約15分
TEL:054-369-0028
Webサイト:清見寺
最後の将軍・徳川慶喜の屋敷跡「浮月楼」
大政奉還という大役を果たし鳥羽伏見の戦いに敗れたのち、江戸城の無血開城を勝海舟などの働きにより成し遂げ、新しい時代の扉を開いた徳川慶喜。謹慎のため駿府に移され戊辰戦争終了後、謹慎を解かれたあとに住んでいたのが現在料亭「浮月楼」となっている場所である。
慶喜が33歳の1869年から1888年までの約20年間この敷地に住み、現在でも高い評価を受けている油絵や写真を趣味として、当時では日本に数台しかなかった自転車に乗って現静岡市内に出向いていた。慶喜の護衛を任されていたことから親交のあった清水次郎長の船宿「末廣」にもよく出向き、「末廣」に展示されている写真などは慶喜が撮影したものと言われている。
幕末の動乱期のキーマンとも言える徳川慶喜の姿はさまざまなドラマなどで描かれているが、大政奉還後の慶喜の姿はあまり知られていない。それは、慶喜が政治にあまり関心がなく趣味に没頭した生活を送り、表舞台に登場しなかったからだと思われる。
政治に関心がなかったというよりは、あまりにも大きな政変の渦中にいたわけだから、静かに過ごしたいと思うのも当然かもしれない。庭園や館内を案内してくれた浮月楼 代表取締役社長の久保田隆氏は「慶喜公がここに来たとき、お供が300人ほどいたが、およそ3500坪(1万1600m2)の屋敷では暮らせないということになり、牧之原でお茶を作るようになりました。慶喜公は33歳から52歳までこの地で家族や女中などを含め50人くらいで暮らしていました。2人の側室との間に21人の子供をもうけ、明治天皇の孫である高松宮宣仁親王に嫁いだ高松宮妃喜久子さまは慶喜の孫であり、このことは、明治維新以降対立していた両家の和解を現わしたものだと思います」と生活の様子を語ってくれた。
料亭「浮月楼」は慶喜が転居した1891年に建物などをそのままに「浮月亭」として創業したが、残念ながら翌年の大火で全焼してしまう。ただちに2階建ての復興建築を行ない開業した「浮月楼」には伊藤博文や井上馨など多くの歴史上の人物が訪れた。その後も火災などで建て替えられてきたが、慶喜が作った「東海の名園」と言われる浮月楼の庭園はほぼ昔のままの姿を残している。
館内には、「萬事花下に酔うに如くは莫く、百年、渾て夢中に狂するに似たり」と書かれた慶喜の書や、「薫風閣」と書かれた伊藤博文の書などが展示されており、「慶喜公歴史コーナー」が常設されている。
ここでは、幕臣から日本資本主義の父と言われた渋沢栄一との関わりなども知れ、久保田隆社長から「この地で慶喜公の世話をよくしたのが渋沢栄一で、渋沢栄一は明治維新の頃はパリの万博派遣団の一員として、慶喜の弟である昭武に随行していたのだが、その間に幕府が倒されて帰国せざるをえなくなった。1968年12月に宝台院で謹慎していた慶喜に会見して、一言目に『なんであそこでお逃げになった』との問いに慶喜公は『お前がそんなことを言うのなら、二度と会いたくない、いつか話をすることがあるだろう』と答え、のちに渋沢栄一が慶喜公の伝記を書いているのでその話もされたのだろうと思います」と解説があった。
「なんであそこで」は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の形勢が不利になったとき、兵力は十分あるにもかかわらず、一族側近とともに江戸に退却したことを指している。
「慶喜公歴史コーナー」で逆賊という扱いから、将軍のときと同格の正二位、従一位へと官位を上げた復活のストーリーが書かれた年譜や、新門辰五郎の娘であり慶喜の妾となったお芳ではないかと言われている写真などを見学し、「浮月楼」にある食事処「浮殿」での夕食となった。
メニューは地産地消「静岡コース」で、富士山プロシュート、清水銀杏、山葵つんつん漬け、由比の生しらす、富士宮の鱒、鰻茶碗蒸し、黒はんぺん焼、静岡茶漬け、桜海老のかき揚げ、巨峰、梨、オレンジなど静岡の自然の幸の多さに圧倒されるような懐石料理である。今回の料理は「静岡づくし懐石(8640円)」をアレンジしたものだったが、ほかにも「浮殿懐石(5400円)」などのコースメニューや一品料理、昼食には「浮殿弁当(2700円)」や「慶喜懐石(5508円)」をはじめ、季節ごとの限定メニューも用意されている。
「浮月楼」
所在地:静岡市葵区紺屋町11-1
営業時間(浮殿):昼食 火~日曜 11時30分~15時(ラストオーダー14時)、夕食 火~土曜 17時~22時(ラストオーダー21時)、日曜 17時~21時(ラストオーダー20時)
定休日(浮殿):月曜
営業時間(浮月楼):昼食 月~日曜 11時~14時、夕食 月~日曜 17時~22時
定休日(浮月楼):なし
アクセス:JR静岡駅から徒歩約3分
TEL:054-252-0131
Webサイト:浮月楼
静岡B級グルメの代表「静岡おでん」
「浮月楼」で懐石料理を堪能し外に出ると、「これから、静岡おでんにご案内します」との声。お昼にマグロ、夜は懐石とお腹に空きスペースはないよと思いながら、「青葉横丁」の老舗「三河屋」へ直行。戦後、市役所前の青葉公園に約200台のおでん屋台が並んでいたが、1957年の都市開発により撤去され、現在の「青葉横丁」「青葉おでん街」に移転し、当時の屋台の雰囲気がそのまま残っている。10人くらい座ると満席になってしまうカウンターは調理場との境がなく、店主の調理風景などを間近で見ることができる。
「静岡おでん」といえば真っ黒なスープに串に刺さった黒はんぺんや牛スジが入り、ダシ粉をかけて食べるのが特徴。そのルーツは大正時代にさかのぼり、当時、廃棄処分されていた牛スジや豚モツを煮込み料理の材料としたことが始まりと言われている。また、由比や焼津など日本有数の漁港があり、練り製品の産地であることから、黒はんぺんなどの練り製品がおでんの具に使われるようになった。静岡市では、駄菓子屋にも「おでん」があり、大人から子供まで親しまれている、まさに地元のソウルフードとなっている。
「青葉横丁」の入り口に店を構える「三河屋」は店主の木口元夫さんのお父さんが1948年頃から青葉公園に屋台を出しており、1979年に2代目となる元夫さんが継いだ老舗である。静岡おでんがブームとなるきっかけとなった「キリンビールのうまいものシリーズ」のモデルとなったお店で「ちびまる子ちゃん」の作者、さくらももこさんも常連だという。上品な手さばきで焼き物を焼いていた奥さんは「サラリーマンに嫁いだのに、まさかおでん屋をやることになるとは思わなかったわよ」と楽しそうに話していた。
「青葉横丁」
所在地:静岡市葵区常磐町青葉横丁1-8-7
営業時間:17時~23時(店舗によって異なる)
アクセス:JR静岡駅から徒歩約10分
定休日:店舗によって異なるが日曜日定休の店が多い
「青葉おでん街」
所在地:静岡市葵区常磐町2-3-6
営業時間:16時30分~24時30分(店舗によって異なる)
アクセス:JR静岡駅から徒歩約15分
定休日:店舗によって異なるが水曜日定休の店が多い
「三河屋」
所在地:静岡市葵区常磐町青葉横丁1-8-7
営業時間:17時~22時(店舗によって異なる)
アクセス:JR静岡駅から徒歩約10分
定休日:日曜(毎月2回 日~月曜連休あり)
TEL:054-253-3836
Webサイト:三河屋