旅レポ

大政奉還150年! 静岡市で食と徳川家の歴史を大満喫(2日目)

徳川家ゆかりの静岡浅間神社から駿府城を巡る

静岡浅間神社の神部神社・浅間神社本殿(重要文化財)

 静岡市が企画した「大政奉還150年!家康から慶喜まで徳川文化タイムスリップの旅」の2日目は、天候の悪化で予定されていた由比港での桜えびの水揚げは残念ながら見学することができなかったが、徳川家ゆかりの静岡浅間神社や駿府城公園などの見学と、老舗「天文本店」では予定になかった生の桜えびの試食などができ、充実した日程となった。

静岡でしか食べることのできない「生の桜えび」
おおよそこのような形だったと思われる、駿府城天守

 今回のツアーには含まれていなかったが、静岡市には、「久能山東照宮」や「三保の松原」など数多くの名勝地がある。徳川家康の墓がある国宝「久能山東照宮」には、「日本平」からロープウェイで行くことができるほか、海側から1159段の石段を登っていくこともできる。

 現在、日本平山頂の公園を整備中で、2018年をめどに360度見渡せる展望台などを造っている。「久能山東照宮」からほど近いところに2013年に「富士山世界遺産構成資産登録」に追加された「三保の松原」がある。海沿いの国道150号から三保の松原に向かう県道199号に入ると正面に富士山が見え、富士山に向かう道のように見えるという。

 海岸まで出ると「三保の松原」越しの富士山を見ることもできるこのエリアにも、2018年にビジターセンターが完成する。また、東静岡駅周辺の再開発も行なわれており、2020年東京オリンピックで正式種目となった「ローラースポーツ」を楽しめる施設を建設中。観光地の整備やスポーツ施設の建設など、今後の静岡市から目が離せない。

徳川家康が元服式を行なった「静岡浅間神社」

「大拝殿」は千鳥破風付の切妻造の初重に入母屋造の楼を重ねた建物(重要文化財)
「楼門」(重要文化財)にある「水呑の龍」。安永の大火のとき、池の水を口に含んで消火を手伝ったと言われている
徳川家康のお守りである摩利支天像を安置していた「八千戈神社」(重要文化財)

 悪天候のため、残念ながら「桜えび」の水揚げは見ることはできなかったが、最初に向かったのが「静岡浅間神社」。静岡市を見晴らす賤機山の麓に鎮座する神社で、神部(かんべ)神社、浅間(あさま)神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社の三社と、麓山(はやま)神社、八千戈(やちほこ)神社、少彦名(すくなひこな)神社、玉鉾(たまぼこ)神社の四境内社を総称して「静岡浅間(しずおかせんげん)神社」と呼び、駿河国総社、富士新宮として千古の昔より広く崇敬されている。

境内を案内していただいた静岡浅間神社 権禰宣 宇佐美洋二氏
神部神社・浅間神社総門(重要文化財)

 静岡浅間神社 権禰宣 宇佐美洋二氏に案内されて神社内を巡っていく。最初に道路に面する門に案内され「この静岡浅間神社は正式には、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社といいます。皆さんの目で見える神社だけで境内に7つあり、実際には33社の神社が合わせ祀られていて、合計40の神社に分かっているだけで56の神々が祀られている総社で、目で見えるお社だけで26のお社があり、すべて重要文化材に指定されています。第3代将軍家光公が久能山から日光に移ったときに日光東照宮の大造営を行ない、そのときに家康公の意向に沿ってこの神社も大造営されましたが、残念ながら二度の火災によって全部燃えてしまいます。現在のものは幕末の1804年から60年かけて建てられました。なかでも、神戸神社と浅間神社は古くから崇敬され、この門は神部神社、浅間神社の門で、元々はこの周辺にも江戸時代には100人程いた神主家の屋敷が取り囲んでいてすべて境内でしたが、激動の時代のなかで徳川宗家の社ということで取られてしまい、今では水路の内側だけとなってしまいました。今では周辺に建物が建てられて見えなくなってしまいましたが、参道の先には駿府城があり、この神社が見える位置に駿府城が建てられました。

 また、この門の中にはかつて仁王像がありましたが、明治に入って『神仏分離令』が敷かれたことで仁王像などの金印木造は家康が幼少期を過ごした『臨済寺』に置かれることになりましたが、臨済寺には仁王像を設置する門がなかったためその門を作るのに尽力したのが、清水次郎長でした」と徳川家との関わりや幕末から明治の様子を語った。

徳川時代は周辺も境内だったが現在では水路の内側のみとなった
門の中には仁王像があったが現在は「臨済寺」に移されている
石鳥居の右奥に公園があり、徳川16代目徳川家達が住んでいた

 静岡という名前の由来に関わりがあるというこの神社について、宇佐美氏は、「周辺の土地は民間に払い下げられてしまいましたが、門前に当時の浅間神社の神主家の跡が公園として残されています。この場所が残されたのは、明治になって慶喜公や旧幕臣などが謹慎のためこの地に来たときに、徳川16代目の家達さんが住んでいたからです。当時、16代目を駿河府中藩の藩知事として迎えたのですが、まだ、徳川家がどのような扱いになるのか分からないこのときに、府中という名前が不忠につながるのではないかということで、賤機山の麓の岡で賤は卑しいという意味になるので、静かに変えて静岡藩として家達公を迎えました。その家達公は2年間藩知事として職務につき、そのうち1年間過ごした屋敷の門が、現在、静岡市立高校に、家達さんが徳川御三卿の田安家出身だったことから『田安門』として残されています」と語った。

「楼門」から見た「舞殿」(重要文化財)
「大拝殿」から見た「舞殿」。能の始祖である「観阿弥」が最後に舞った場所とされている
いたるところに葵の紋
「舞殿」にある「波に飛龍」。「舞殿」のみ漆などが塗られていないので木目が見える
200年経っているとは思えない柱

 境内に入り、「大拝殿」の手前にある「舞殿」まで進む。境内にある神社のほとんどが漆塗りされているなかで、「舞殿」は唯一白木のままの建物で木の年輪が見える。宇佐美氏は「柱の年輪を見てもらえると約200年たっているとは思えないくらいの細かく緻密な木材で、大きな丸太から芯を外した『芯去材』が使用されています。また、漆が塗られていないので一木彫りの『波に飛竜』などの繊細な造形がよく分かると思います。ここは人が拝む場所なので波などが描かれていますが、本殿などに行くに従い、神様の祀られている場所と彫り物の種類も変わっていきます。また、この舞殿ではいろいろな方が奉納されていますが、有名なのは、燃えてしまう前のことですが、能の始祖である観阿弥が最後に舞った場所とされていて、世阿弥が書いた能の理論書『風姿花伝』にもそのことが書かれており、観阿弥はここで舞ったあとに駿河の国で亡くなったと言われています」と説明があり、「大拝殿」へと進んでいく。

「大拝殿」は、雲と波の彫り物で天と地が分けられている
「大拝殿」には132畳の畳があり、すべて形が異なるため入れ替えができない
雲と波の彫り物

「大拝殿」は高さが約25mあり、かなり見上げるような建物。宇佐美氏は「全国にある神社のなかで一番大きいと言われていて、浅間神社というのは元が富士宮で富士山を拝む信仰なのでこのように大きく作られたのではないかと言われています。1階部分の屋根と2階部分の屋根では建築様式が違う珍しい建物で、間に海と雲が彫られていて、天と地の境界を表わしています。この建物は国宝候補とも言われていて静岡浅間神社の特徴的な建物で、8年後には改修工事で美しく生まれ変わります」と述べた。

「大拝殿」の天井絵。神部神社側は「狩野栄信」によるもの
栄信画「天人」鳳笙
栄信画「天人」蓮花
「大拝殿」の天井。ここにも天地を分ける雲と波がある
「[大拝殿」の天井絵「四方睨の龍」。浅間神社側は「狩野寛信」によるもの
寛信画「天人」琴と「天人」柄香炉
「大拝殿」にもさまざまな一木彫りがある
トキの一木彫り
神部神社側にある「金太郎に抱かれた因幡の白うさぎ」
浅間神社側にある「桜の花と花咲じいさん」

 大拝殿の中に入ると、「この大拝殿には入り口が2つあり、建物に向かって左側が浅間神社、右側が神部神社となっています。建物は左右非対称で、全体に敷き詰められている132畳の畳は同じ大きさの物は一つもなく入れ替えができません。神部神社は今から約2100年前の紀元前に大己貴命(別名:大国主命)を主祭神として祀られこの地方では最も古い神社で、それから約1000年後に富士山本宮浅間神社の新宮として木之花咲邪姫命を主祭神として浅間神社がここに祀られました。この二つの神社を同格としたことから同じ社殿に祀られており、この上にある本殿も同様に入り口が2つとなっています。

 見上げてもらえると10面の天井絵があり、神社でこれだけ大きな天井絵があるというのはとても珍しく、もともと、江戸時代は神仏混淆であったため寺社の要素が強く現われたものだと思います。真ん中にある2枚の龍の絵は1枚約6畳、その左右にある天女の絵は1枚約4.5畳あり、神殿に近い方の龍と右側の神部神社側を『狩野栄信』、南側の龍と浅間神社側の天女は『狩野寛信』によって描かれています。また、天井絵の下にはたくさんの彫り物が置かれてあり、神部神社は因幡の白うさぎがモチーフとなっていて金太郎が白うさぎを抱いているようなものなどがあり、浅間神社側には、桜をモチーフとした花咲じいさんなどがあります」と説明があった。

神部神社から見た神部神社・浅間神社本殿
本殿には金箔などがふんだんに使われていて、「舞殿」、「大拝殿」と徐々に豪華になっていく
神部神社には「大国主命」の象徴である白うさぎが彫られている
浅間神社には「木之花咲邪姫命」の使いである子供を抱いた猿が彫られている
神部神社側には鳳凰、浅間神社側には孔雀が多く彫られている
両社の中央にある「蓬莱」
「粟穂にうずら」はあまりにもできがよく、夜に泣いたと言われている
延命長寿の象徴である鶴と亀に仙人が乗った姿が彫られている

 すべて一木彫りの彫り物は「神部神社」「浅間神社」の本殿にも数多くあり、なかには入れなかったものの、外観を見るだけでその豪華さは群を抜いており、今まで見たことのない二社同殿という変わった形式にも興味を引いた。「律令の時代、神社に社格があり、地名にも残っているところもありますが、一宮、二宮、三宮とあり、それとは別に、国府のあるところに総社というものを置きました。国府に近かったこの神社は総社となり、また、全国に1300ある浅間神社の一宮は富士宮の浅間大社で、その新宮として祀られたのがここにある浅間神社です。浅間大社の扉の上には母猿が子猿を抱いている姿が彫られています。主祭神は『木之花咲邪姫命』で、木之花とは桜のことを指し桜の花のように美しい神様だと言われており、古事記では産屋に火を放って子供を産んだと伝えられていて、安産、子授けの神様と言われています。また、猿は浅間神社のお使いと言われ、駿府の町では猿を獲ってはいけないというおふれが出されていました。『神部神社』には、大国主命の象徴である『因幡の白うさぎ』が彫られており、また、手前には亀に乗った仙人と鶴に乗った仙人が彫られています。この亀は3000年に一度頭を出すと言われ、この仙人はそれを5回見たという言い伝えがあり、延命長寿を物語ったものだと言われています」と説明を受けたこの本殿も、8年後には漆などが塗り替えられ、見違えるようになるという。

徳川家康のお守りである摩利支天像を安置していた「八千戈神社」(重要文化財)
軒下に細かな細工の一木彫りの「鳳凰」がある
下から見上げてみると鱗などが細かく彫られているのが分かる
金細工などで豪華に造られている
神仏一体を象徴する「火灯窓」
「三葉葵」が四隅の角に施されている
建物の下には、地を表わす波の彫刻

 次に案内されたのが、家康が陣中で使っていたお守りの摩利支天を祀った「八千戈神社」で、「この神社は家康のお守りを祀るために造られた神社で、日光東照宮大造営の際に、3代将軍家光公が家康公のお守りである摩利支天を、日光東照宮や久能山東照宮ではなく、この静岡浅間神社に祀ったということからも、家康公のこの浅間神社に対する思いというのが窺い知れると思います」と語った。

 ここで、「せんげん」と「あさま」の違いについて質問をした。「本当の読み方は“あさま”なのですが故実読みや有職読みと言って、直接偉い方などの本来の名前を口に出すことができなかったため、“せんげん”と当てて読んだもの。ここでは全体を“しずおかせんげんじんじゃ”としていますが、本来の読み方を残すために“浅間神社”は“あさまじんじゃ”と呼んでいます。よく、静岡の方は、慶喜さんのことを“けいき”さんと呼びますが、それと同じです」と答えてくれた。なるほど、昨日から慶喜公ゆかりの場所などで質問すると、「けいきさん」が飛び交い、少し不思議に思っていた疑問が解けた。

7社を巡ると殆どの願い事が叶うという「ご朱印札」
若い女性を中心に人気がある「御朱印帳」
7社のなかで一番遠いところにあるのが「麓山神社」で、参道の「百段階段」を登っていかなければならない

 社務所に置かれた朱印帳は最近では若い女性を中心に人気があるようで、全国の神社やお寺を巡る人が増えているという。「いろいろな寺社仏閣を見てきて目の肥えた方々でも、この神社に来るとあまりの豪華さに驚いて帰られます。この神社には御朱印帳のほかに、スタンプを押しながら巡る7社参りのお札があり、7社を巡ってお祈りをしてもらうと56の神々にお参りしたことになり、願いごとはなんでも叶います」と素晴らしい情報をもらった。「ただし、なかには、スタンプだけ押して回る人もいるようで、スタンプラリーではないので、ちゃんとお参りをしてからスタンプを押してもらわないと御利益はありません。皆さん気をつけてください」とスタンプだけを押しに行こうとしたのを、見透かされたように注意された。

境内にある水路は「安倍川」とつながっており、シジミなどが生息している
キリンビールの図柄の元になったと言われる「麒麟」
徳川16代目徳川家達の書。7歳の頃書かれたもので、天皇に対し徳川は恭順を示すという意味だという

「この神社は山の南端にあり自然が多く残っているので、イノシシがでたりサルが出たり、最近ではムササビが巣を作っていたりしました。また、周辺にある水路は一級河川の安倍川につながっていて、シジミなどが生息しています」と宇佐美さんは水路の中を覗き込み、仕込みではないかと疑うくらい手早くシジミを掴み上げた。

 時間の都合ですべての神社をまわることはできなかった。静岡の街が門前から発達したといわれる「大歳御祖神社」は、50年に一度との本殿改修時にしか行なわれない神事の「本殿遷座祭」(12月3日)と「奉祝奉幣祭」(12月4日)が予定されている。

静岡浅間神社

所在地:静岡市葵区宮ヶ崎町102-1
参拝時間:7時~18時
アクセス:JR清水駅からバスで約8分「赤鳥居 浅間神社入り口」下車
TEL:054-245-1820
Webサイト:静岡浅間神社

創業137年の老舗で味わう静岡の味「天文本店」

「天文本店」の「葵弁当」

「静岡浅間神社」では残念ながら時間の関係ですべてをまわれなかった。時間の関係でと言っても説明を聞きながら、写真を撮りながらとはいえ約2時間かけてもまわりきれなかったその広さを空腹感で実感した。時間も正午となり、創業137年の「天文本店」での昼食となった。

「天文本店」外観

「天文本店」は1879年創業の老舗で、1894年の桜えび漁開始直後から、桜えび料理を提供している名店で、伝承される「桜えびのかき揚げ」は多くの桜えび料理がある静岡市内でも評判のお店。

 今回はその「桜えびのかき揚げ」をはじめ、静岡グルメを存分に味わえる「葵弁当(1500円)」をいただいた。「天文本店」には、ほかにも「桜えび丼(1500円)」や「桜えび茶漬け(1000円)」、桜えびを存分に味わいたい人には「桜えびコース(3000円~)」などの桜えび料理がある。

桜えびにかき揚げ
用宗漁港の釜揚げしらすごはん
鮪のお造り
焼津の黒はんぺん焼き

 最初に出された料理は、今朝行くはずだった由比港で食べるはずだった、「生の桜えび」。店主のご厚意で出してもらった生の桜えびは、静岡でしか味わえないもの。桜えびは、世界的にも希少な生物として知られ、国内では駿河湾、世界でも静岡と台湾でしか水揚げされていない。

「桜えび」の水揚げは、「由比」「大井川」の2漁港のみで行なわれており、合計で120隻の桜えび漁船のうち84隻が由比漁港に所属し、静岡市が日本一の水揚げ高を誇っている。漁法は2艘が一組となり網を引く船引き網漁で、自然保護のため、毎年10月下旬~12月下旬の秋漁と3月下旬~6月上旬に限られた時期にだけ漁を行なう。時間帯は16時~23時頃で、夜間一斉に帰港する漁船の明かりはとても幻想的だという。

生桜えび
桜えび茶漬け

 料理が出されてから、店主の萩原さんから「今日は、あいにくの雨で漁に出られなくて残念でした。桜えびというのは昼間は海の底にいて、夜になると海面近くまで上がってくるのですが、最初は誰も桜えびの存在を知りませんでした。あるとき、台風の日の翌朝、海辺にいた桜えびを発見してから漁が始まりました。桜えびの特徴はヒゲが体長の3倍くらいありとても長いことで、通常ヒゲをとってお出しするのですが、10年くらい前に、桜えびのヒゲががんに効くと言った方がいて、そのときは、ヒゲが欲しいというお客さんが増えました。桜えびの料理には、生、かき揚げのほかに、釜揚げや、薄い衣であげる唐揚げなどがあります。今日の葵弁当は数十年前に、徳川家にちなんだ『葵博』と言うのが催され、そのときに作ったものを、今でも続けています。内容は、由比の桜えびのかき揚げのほかに、用宗漁港の釜揚げしらすごはん、焼津の黒はんぺん焼き、鮪のお造り、鰻巻きを用意しました」と料理や桜えびについての説明があり、昼食となった。

東京などにも出店している「キルフェボン」
1907年創業丸七製茶の「ななや」
7段階の濃さがある「静岡抹茶ジェラート」

 最初に、生桜えびを食べたときに、食感が柔らかく甘みがあって美味しいと感じたのだが、その後にかき揚げを食べると、甘みが増してより美味しかった。食事のあと、桜えびの唐揚げが入ったお茶ずけをいただいたが、近隣の静岡名店めぐりをした際に、抹茶アイスを食べてしまったあとなので味が分かりにくかったが、かき揚げが一番美味しかったと感じた。

「天文本店」

所在地:静岡市葵区七間町4
営業時間:11時~14時30分(ラストオーダー14時30分)、17時~21時
定休日:不定休
アクセス:JR清水駅から徒歩約12分
TEL:054-252-0510

日本初の「見える」発掘調査! 来年度からは一般観光客の発掘体験も実施「駿府城跡天守台発掘調査」

駿府城跡天守台発掘現場

 静岡市では現在、江戸城を凌ぐ大きさと言われている駿府城跡天守台の発掘調査を、2016年8月~2020年2月末までの4年間をかけて行なっている。駿府城の天守台は、66×57m(江戸城の天守台は45×41m)と推測されており、現在石垣の一部が姿を現している。

今後の取り組みなどを話す、静岡市観光交流文化局歴史文化課 参与兼課長 丸岡浩三氏
「発掘情報館 きゃっしる」の看板

 この発掘調査は、日本初の「天守台発掘調査の見える化」に取り組んでおり、静岡市観光交流文化局歴史文化課 参与兼課長 丸岡浩三氏から説明があった。「静岡市には歴史があります。その歴史を磨き上げることで、地域の方々に静岡市の歴史を知っていただいて、郷土愛を育んでもらいたいということと、それが一つの観光資源にならないかということで、歴史文化の町づくりという取り組みをしていきたいと思っています。

 そのなかで、この駿府城公園を一つのモデルケースとして、ここを桜の名所にしていこうという取り組みや、昨年、徳川家康公薨去から400年ということで、家康公や今川氏に関した博物館を平成33年(2021年)に『歴史文化施設』」とする計画をしています。家康公を中心とした博物館を作るということで、1604年に改修されて1635年に焼失して以降再建されなかった駿府城の天守台を発掘し再建に向けて、発掘調査を進めていき、発掘されたお堀を見てもらうことで歴史に対する思いや、家康公に対する思いをより深く持ってもらいたいと思っています。8月7日から発掘調査が始まり、西のあたりが67mほど出てきました。9月から小・中学生を対象に発掘体験を行なっており、来年度からは一般の方にもインターネットで申し込んでもらい、第2と第4の土日に発掘体験をしてもらうことを予定しています。発掘調査期間の4年間の間で、次に進むよう市民や学校の皆さんに間近に感じ取っていただきたいと思います」と今後の予定などを話した。

発掘された石垣
発掘されたしゃちほこ
高級陶磁器や瓦の破片、古銭などが発掘された

 引き続き、同課 主査 小泉祐紀氏より発掘調査の説明があり、「通常の天守は、石垣からそのまま天守が伸びていますが、駿府城の天守台は、石垣の内側に建物が建っていたという珍しい特徴があります。ですので、出てくる天守台よりは天守はひとまわり小さくなりますが、天守台の規模は大きく日本でも最大規模のものです。建物そのものは、江戸城の方が大きかったのですが絵図面をもとに江戸城と比較してもひとまわりくらい大きい天守台でした。明治時代に天守台を崩して横にあった堀を埋めたという経緯があり、埋められた石などを取り除くと天守台の石垣が姿を現すので、現在、西側が見えてきています。これから発掘調査現場を実際に見ていただきますが、今日は雨なので発掘体験はできません。雨の日用の発掘された瓦などを洗うという作業を行なっていただきます」と話した。

発掘体験は、兜風のヘルメットをかぶって行なう
石に刻まれた刻印などを発見することも

 遺跡などの発掘現場を見たことはあるが、実際に発掘作業をさせてもらえることなど滅多にないことなので、楽しみにしてきたのだが、外は雨。自分の日頃の行ないのわるさを戒めつつ、発掘現場へ向かう。発掘現場を見ながら、小泉氏から「8月7日から約2カ月発掘を行なって、西側の石垣が出てきていて、絵図面では西側は66mとなっていましたが、実際にはおよそ68mあります。天守台の高さは、地表から12m、水面からは19mあったことが記録に残っています」と、説明があり、発掘現場へ。

 今回は雨天のためあまり観察することができなかったが、地震によって崩れた石垣を積み直した際、その時代によって積み方が変わるため、下側に古い積み方、上に新しい積み方の箇所などがあり、石に刻印がされているのを見つけられることもあるという。名残惜しく感じながら、累々と重なった石垣をしばし眺めて、雨の日用の小屋へ移動する。

雨天時は、発掘された瓦などを綺麗にする作業を行なう
発掘の説明を行なう静岡市観光交流文化局歴史文化課 小泉祐紀氏
汚れを落とすと、模様などが現れることもある
「発掘情報館 きゃっしる」には発掘に関するさまざまな情報や体験コーナーなどがある

 堀の底近くから出土した主に瓦などが多数あり、水で綺麗に洗うことで本来の色などが出てくる。あまり強くこすらず、丁寧にということでかなり地道な作業だが、模様などが現われてくるとワクワクした気分になれる。

 ほとんどが瓦なのだが、厚みや模様によって時代が違い、旧今川家もこの辺りにあったとされていることから、かなり古い時代のものが発掘される可能性があり、天守のシャチホコなども出土しているという。一般の発掘体験は来年度からだが、発掘現場内にある「発掘情報館 きゃっしる」には発掘調査の速報表示や江戸時代の瓦などに触れられるスペースが設けられており、見学することができる。天気のよい日にもう一度来てみようと思いつつ現場を離れた。

「駿府城跡天守台発掘調査」

所在地:静岡市葵区駿府城公園1-1
期間:2016年8月9日~2020年2月末まで
発掘作業日:毎週月~金曜(祝日除く)、毎月第4土・日曜(祝日実施)※雨天中止、「発掘情報館きゃっしる」は年末年始(12月29~1月3日)を除き毎日開館(9時~16時30分)
入場料:無料
アクセス:JR清水駅から徒歩約15分/静岡駅前からバスで約15分「東御門」下車
TEL:054-221-1085(静岡市歴史文化課)
Webサイト:駿府城跡天守台発掘調査

天下人徳川家康が終の棲家とした居城「駿府城」

復元された「東御門・巽櫓」

 14世紀に室町幕府の駿河国守護に任じられた今川氏は、駿府を拠点に領国支配を行ない、その館は現在の駿府城公園付近にあったとされている。16世紀に入り、武田氏の駿河侵攻により今川館は焼失、その後、武田氏を滅ぼした徳川家康が五カ国(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)支配の拠点として築城したのが駿府城である。豊臣の時代に入り、小田原攻めのあと秀吉の命令で家康が江戸に移ったあとは、豊臣家の家臣である中村一氏が入城した。

駿府城本丸跡に置かれた「徳川家康」像
以前の発掘調査で掘り出された「本丸堀」
本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路

 関ヶ原の戦いに勝利した家康は、1603年に江戸幕府を開きその2年後には将軍職を秀忠に譲り、大御所となって江戸から駿府に移り住み、駿府城の大改修を行なった。これは全国の大名に工事の負担を命じる天下普請によるもので、発掘された石垣などには大名の家紋などが刻印されたものが数多く発見されている。

 現在発掘調査されている天守は、この頃造られたもので、本丸の北西角に5層7階建て(6層7階建てとする意見もある)で、豪華絢爛な造りだったと言われているが、1635年の火災で焼失し、御殿や櫓などは1638年に再建されるが天守は再建されなかった。そのあとも1707年の宝永地震や1854年の安政地震により、被害を受けるがその都度、修復工事が行なわれた。

「東御門・巽櫓」内の資料館に置かれた駿府城天守の想定模型
図面をもとに作られた駿府城の立体模型
二の丸堀から発掘された青銅製のしゃちほこ

 明治に入ると城は不要のものとなり、門や建物は払い下げられ取り壊しが進んだ。駿府城跡地は静岡市の管理となったが、1896年に陸軍歩兵第三十四連隊が置かれると、天守台は取り壊され本丸堀は埋め立てられた。

 戦後、本丸、二の丸の範囲は公園となり、1989年に市政100年の記念行事として江戸時代中頃の絵図や記録をもとに、二の丸南東の巽櫓、1996年に東御門、2014年に坤櫓が日本古来の伝統的工法によって再建され一般に公開されている。

 ただ、現在、天守がどのような形であったかの明確な資料はなく、「当代記」「慶長日記」「増補慶長日記」「武徳編年集成」「御天守御注文」などに記録があり、すべてに共通して書かれていることからおおよその構造は浮かび上がってくるが、その一方で、各階の大きさなどに違いがあり、高さなどの記述がないなど不十分な点が多い。

 また、駿府城が描かれた絵図などはいくつか残っているのだが、描かれた天守の形は絵図によって異なっており実際はどのような形であったか特定することができない状況である。

家康が植えたとされているみかんの木
フェンス内には何本かのみかんの木があるが、これは1本から分かれたものだということだ
落ちているみかんを職員の方が開いた様子。現在の温州みかんより小ぶりで、中に種がある

 現在の駿府城公園本丸跡には、家康の像が建っており、そのそばにフェンスで囲われた家康が手植えしたと言われる「みかんの木」がある。記録には、このみかんは紀州藩から献上されたもので、献上されたみかんの木を一鉢植えたと記されており、当時、このみかんを食べていたかどうかは不明。

 一鉢ということからも、金色の実がなる果実として観賞用だったのではないかと言われている。また、現在、「紅葉山庭園」が公園内にあるが、これは公園を造る際に、当時、本丸の御殿にあった紅葉山庭園に由来して造園されたもので、本来の場所は、みかんの木がある場所だったと言われている。

「東御門・巽櫓」
資料館入口
駿府城と城下町の模型
築城や改修のため細工職人などが移住し、模型の街静岡の元となった
「東御門」

 復元された「東御門」「巽櫓」に移動し復元の経緯について職員の方から、「この建物自体は、駿府城の東南の位置にある、『東御門』と『巽櫓』、『多聞櫓』が合体した建物で、1989年に静岡市政100周年を記念して作り始め、1996年までかかって造られたものです。駿府城の建物の図面などはほとんど残っていなかったのですが、調査によって、1750年に改修工事をしたときのこの建物と「坤櫓」の詳細な寸法などが書かれたものが、修理を行なった大工さんの家に残されていて、駿府城に関する建物の復元が初めてできたというものです。工法なども京都から宮大工さんを呼んで伝統工法を使い、石積みなども穴太衆の石工の皆さんに来ていただいて復元されました。中は資料館となっていて、図面から起こした立体模型などが展示されています」と説明を受けた。

 駿府城天守を建築した大工頭は「中井正清」であることは分かっており、徳川家康に仕え「二条城」や「江戸城」「日光東照宮」「久能山東照宮」「増上寺」など家康に関わる建物に多く携わっている。また、静岡市には、このツアーで見学した「静岡浅間神社」や「清見寺」など多くの徳川家に関わりのある建造物が多く、それらの建設や改修のため多くの大工や細工職人などが移り住み、現在模型の街としても有名な静岡市の礎となっている。

「紅葉山庭園」手前に駿河湾、奥に茶畑と富士山を表している
園内の茶室では、足久保煎茶、日本平煎茶、本山抹茶、朝比奈玉露(いずれも510円)がいただける

 このツアーの締めくくりとして、駿府城公園内の「紅葉山庭園」に向かった。庭園の風景は静岡を表現したもので駿河湾から望む富士山や三保の松原などがコンパクトにまとめられている。最後に、園内にある茶室に併設された立礼席で、お茶をいただいて終了となった。

駿府城公園内「東御門・巽櫓」「坤櫓」「紅葉山庭園」

所在地:静岡市葵区駿府城公園1-1
入園時間:9時~16時30分(入館は16時まで)※駿府城公園は入場自由
休館日:月曜日(祝日・休日は開館)、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料:大人 東御門・巽櫓 200円、坤櫓 100円、紅葉山庭園 150円/小・中学生 各50円/全施設共通券 大人360円 小・中学生120円
アクセス:JR清水駅から徒歩約15分/静岡駅前からバスで約15分「東御門」下車
TEL:054-251-0016(駿府城二の丸施設管理事務所)
Webサイト:駿府城公園内「東御門・巽櫓」「坤櫓」「紅葉山庭園」

高嶋一成

1965年福井県生まれ。旅ものからIT系までさまざまな仕事に追われる日々を、船旅で癒している。ろくに話せない英語を気力でカバーしていく海外旅行も大好き。なぜか編集者からは武闘派と呼ばれている。