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京都「園福線」も廃止へ。次々消えゆく元・国鉄バス路線。もともと廃止となりやすい背景も
2024年3月8日 14:00
数十年の歴史がある「旧・国鉄バス」なぜ廃止が相次ぐ?
各地のJRバスに転換となって40年近く経つ「旧・国鉄バス路線」の廃止・再編が、ここ数年で相次いでいる。
多くの国鉄バス路線は戦前や戦後の高度成長期前に路線を開設し、1987年の民営化とともに各地のバス会社(以下の表記を「JRバス」で統一)に引き継がれてきた。なかでも近年廃止となっている路線は、いずれも満載の乗客を乗せていた時代があり、元・国鉄バスの象徴ともいえる名物路線ばかりだ。
鉄道ファンの方でも、冒頭の路線図や巻末のバス時刻表に目を通す方なら、今回廃止となる京都府「園福線」、山口県「光線」(いずれも2024年3月末をもって運行終了)の記載を見たことがあるだろう。
昭和に全盛期を迎え、平成でもそれなりのにぎわいを保っていた旧・バス路線は、なぜ令和のいまになって、次々と消滅しているのだろうか。まずは、各路線の歴史と現状をたどってみよう。
京都の巨大自動車駅からJRバスが撤退?〈近年の「旧・国鉄バス」廃止路線まとめ〉
「園福線」(園部駅~福知山駅間)のターミナル「桧山駅」(バス停としての表記は「桧山」)は、国鉄バスの最大の特徴「自動車駅」(バス駅)の代表格として知られていた。
旧・国鉄バスの要衝に設置されてきた自動車駅は、鉄道と乗り継げるきっぷの販売や小荷物の配送なども行なう、まさに「鉄道は来ないけど鉄道駅とほぼ同格」といった存在で、かつては全国各地にあった。桧山バス停も看板に「JR西日本バス 桧山駅」と明記されており、立派なスピーカーや窓口跡もあるため、かつては発着の放送や小荷物の扱いなども行なっていたのだろう。いまも立派な待合室と8本のホームを擁し、一大ターミナル“駅”としての風格を漂わせている。
園福線全線廃止をもって、1939年の開業から鉄道省営バス→国鉄バス→JRバスと続いてきた系譜が、この“駅”から消える。しかし4月からは京都交通・中京交通のバスに転換となり、バス路線や停留所としてはなんとか存続が決まった。
園福線と時を同じくして廃止となる「光線」は、戦前の鉄道省営バスからの系譜を受け継ぎ、1940年に開設した「光海軍工廠」にいたるかつての軍用道路(現在の国道188号)を走り続けたてきた。この道路は非常時に滑走路に転用できる道幅で建設されており、今でも地方都市の国道としては驚くほど広い。
光線は平成初期ごろまで頻繁に運行されていたものの、何度も減便を繰り返し、現在では1時間1~2本程度。ほとんどの区間で並行している民間のバス路線(防長バス)に路線を明け渡し、全線廃止とともに営業所(中国ジェイアールバス周防営業所)も閉鎖となる。
ほか近年では、金沢~白川郷~名古屋間の国鉄バス路線「名金線」の残存区間(金沢駅~福光駅)が2022年6月に区間短縮。奈良県・滋賀県・三重県をまたぐ「近城線」の末裔「和束木津線」(2002年に和束町小杉~信楽駅間を廃止のうえで奈良交通に移管)の一部区間や、広島県・島根県を結んでいた「広浜線」の残存区間(大朝車庫~広島駅)が2023年3月に廃止に。数十年の歴史を持ち、旧・国鉄バスの系譜を受け継ぐ旧・国鉄バス路線の廃止が、ここ2~3年で相次いでいる。
これらの路線の廃止の原因が、「地域の過疎化」「モーターリゼーションによるクルマ利用への転出」、そして「コロナ禍によるバス会社の経営悪化」であることに疑いはない。しかしそれ以外にも、旧・国鉄バス路線は、存続しづらい理由を抱えているのだ。
苦境が続いた国鉄バス路線。もともと収益をとれない体質だった?
旧・国鉄バス路線の廃止が各地で相次ぐ背景として、「路線の形態がもともと時代に合っていなかった」ケースが見られる。多くの路線は戦前・戦後の早期に開設され、地域や人の流れが大きく変わっても惰性で生き残り、コロナ禍による再編がダメ押しとなって路線消滅を迎えたのだ。
国鉄バスはもともと、事前に採算性を計算する民間のバス路線と、路線開設の基準が違う。以下のような独自の5原則に基づいて、路線網を広げてきたのだ。
「先行」鉄道計画がある場所に、先にバスを走らせる
「代行」鉄道に代わる手段として走らせる
「短縮」2つの鉄道駅の間の短絡路線
「培養」鉄道の将来的な需要を開拓するために、駅周辺への路線開設
「保完」鉄道駅が遠い場合に、市街地との連絡を果たす(後年に追加)
国鉄バスの路線は、その多くが地域開発のために、国鉄(戦前は鉄道省)の意向を受けて路線を開設。開業後も地元に公的なバス路線とみなされ「まさか廃止はされないだろう」という見方のもとに、各路線とも地域の支援を受けづらい環境のもとに存続。その後も、バスの役割が都市間輸送から近距離輸送(病院・学校など)のに変わるにつれて、県境・自治体境越えが多い旧・国鉄バス路線は各地域で衰退を余儀なくされたのだ。
バスの赤字を埋めようにも、収益が上がりそうな地域への進出や、貸切バス・高速バス部門の営業は「民業圧迫」(役所の事業が民間の事業と競争・圧迫する状態)と見なされ、手を出せず、バス車庫の商業施設化もできない。バスで収益は取れないのに、各方面の顔色を伺わないと路線の廃止もできず、八方塞りな状況が長らく続いたのだ。
また旧・国鉄バス路線は2002年の完全民営化(全株式の民間売却)までは一般的な路線バスの補助を受けられない「特殊事業者」扱いで、補助を受けやすい民間バス会社への路線移管も相次いだ。先に述べた和束木津線も、「民間委託なら1台当たり5人以上の乗車、経常経費の20分の11にあたる収益で国・京都府の補助を受給できる」という状況のもとに、地元がJRバスから奈良交通への移管を受け入れた経緯がある。
2024年に廃止となる「園福線」「光線」はこういった苦境を乗り切ってきたが、特に園福線では運転手の高齢化が著しく、いまや運転手の3分の2が60代という状態だという。主な撤退の原因は「30年間で10分の1」という乗客の減少だが、新しい運転手の補充ができなかったことによる運転手不足も撤退の一因となったようだ。
訪れるなら今のうち! 「旧・国鉄バス」探訪
元・国鉄バスの系譜をそのまま受け継ぐバス路線では、昔の設備をじっくり観察できる。まもなくJRバスが消える園福線・桧山駅のような「自動車駅」を眺めてみよう。
JRバス高遠線の拠点「高遠駅」(長野県伊那市)は自動車駅として、鉄道(JR飯田線)への乗り継ぎのきっぷや定期券・回数券などが窓口で販売されていた。JNR(国鉄)マーク付きのスピーカーからはバスの発着案内が流れるなど、鉄道駅と変わらないたたずまいを長らく保っていたという。
建物の外壁には「竣工 日本国有鉄道」の銘板が残り、広い待合室には立ち食いそばの店舗まであったという。自動車駅としては2022年3月に無人化されたものの、「高遠駅」の看板や建物はいまも健在だ。
名金線のターミナルであった「牧戸駅」(岐阜県高山市荘川町)は、JRバスの撤退後も地元のバス(濃飛バス・のらマイカー)の待合室として活用され、近年の建て替えによって、往時の国鉄バスの運行の様子を伝えるコーナーが待合室に開設された。
この地域での国鉄バスは、貨物・小荷物の扱いや移動型郵便ポスト(車体に「郵便差出箱」が設置され、手を挙げてバスを停め、ハガキを投函することができた)としての役割を果たしていたという。冬場は雪に閉ざされるこの地域で、国鉄バスは貴重な移動手段として使われてきた。
また元・国鉄バス路線としては、バス専用道を疾走する「JRバス白棚線(はくほうせん)」にはぜひ乗っておきたい。バス専用道は1944年に休止した鉄道路線「白棚線」の線路跡地をそのまま舗装したもので、駅の跡地はバスのすれ違いができる停留所として、鉄道としての名残をたっぷりと残している。
また国鉄バスが高速バス「名神高速線」への参入をどうにか許された際には、専用車両の走行試験もこの地で行なわれたという。この白棚線は鉄道・路線バス・高速バスの歴史を車窓から読み取れるうえに、信号のないまっすぐな道を時速60kmで快走するため、普通に乗り心地がよい。
園福線・光線ともに、JRバスとしての営業は2024年3月まで。しかし各地での旧・国鉄バス路線は、まだまだ乗車が可能だ。鉄道駅から離れた歴史ある街や「自動車駅」を眺めることができる「国鉄バスの旅」を、ぜひともお勧めしたい。