旅レポ

グルメ、景色、歴史をまとめて味わう山口県1泊2日の旅(その5)

おもしろきこともなき世をおもしろく生きた人々の情熱を感じられる萩のスポット

城下町を見たあとは萩城跡へ

 山口県が同県の魅力を伝えるべく実施したプレスツアー。前回に引き続き、萩市内の歴史探訪の模様をお届けする。

 前回は萩の城下町(のお手軽コース)を見てまわった。今回はその萩城へまず向かう。現在は「萩城跡 指月公園」として、本丸部分を観光協会が整備・管理している。入場料は大人210円、子供(小・中学生)100円。公共交通機関を利用する場合は、萩循環まぁーるバスの西回りコース(晋作くん)を使い、「萩城跡・指月公園入口 萩夏みかん工房前」バス停が最寄りだ。

 城下町の北西部にある指月山の麓に天守閣を持つほか、山頂に詰めの城を持っていた。つまり、江戸城に代表される江戸時代の主流である平城と、戦国時代に多い山城を組み合わせているのが特徴。天守閣も山頂の城郭も現存していないが、山麓の天守台の石垣を見ることができる。

 前回も少し触れたように、江戸時代の毛利家が萩を居城とした理由として“(毛利家を恐れる)江戸幕府の方針によって萩城に押し込められた”という説や、“三方を海に囲まれた守りやすい要害の城”という説があって、代々の毛利家当主がどのように考えていたかは結論が出ていないと筆者は理解している。ただ、幕末期に(幕府に無許可で)山口城へ移ったり、第1次長州征伐後には蟄居を命じられたら萩へ行ったりと、当時の毛利敬親・定広親子は萩と山口を行ったり来たりする羽目になっている。それは果たしてどんな気持ちだったのだろうか……などというのは歴史好きゆえの妄想だが、これも史跡の多い街の楽しみ方だと思っている。

 一方、純粋に観光スポットとしても面白い場所だ。この日は晴天に恵まれ、風も弱かったことから、石の無機質さと指月山の緑、そして内堀に映る指月山が非常に美しく見えた。もっと風が弱かったらよかったのに、というのは贅沢かも知れないが、想像するだけで美しさが脳裏に浮かぶ。

 また、江戸時代初期の毛利輝元の時代から、徐々に作られていった石垣も興味深かった。組み方の違いは作られた時代の違いだろう。また、内堀を渡す橋は廃城となった明治時代以降に作られたもので、こちらは明確に整然とした組み方になっていることが分かる。

 さらに、聞くところによれば指月山は春には桜が咲き誇るという。しかも、日本では萩にしかないという、花びらが白く、ガクが緑という珍しい桜「ミドリヨシノ」が1本だけあるそうだ。季節ならではのトピックではあるが、心を引きつけられる情報だ。

萩城跡の南側。奥に「萩城跡 指月公園」の入り口がある
左に見えるオレンジのコーンが建てられている場所が天守台跡
橋とその両脇の石垣、天守台の石垣といった具合に、石の形が組み方が微妙に違っていて興味深い

先生でもあり神様でもある吉田松陰ゆかりの地

 続いては、この名を耳にしたことがない人はいないであろう「松下村塾」を訪れた。詳しく説明する必要もないだろうが、長州藩の吉田松陰が開いた私塾で、幕末維新期に活躍する多くの志士、政治家がここで学んだ。2015年は吉田松陰の妹である文を主人公とした大河ドラマ「花燃ゆ」が放映されたこともあって、注目が高まった年だ。

 筆者が山口県を訪れてちょっと驚いたのは、山口の人がナチュラルに「松陰先生」と呼ぶことだった。そこまで尊敬される人物が地元出身者にいることが、はっきり言ってうらやましい。そして、神として祭られ「松陰神社」が建てられている。松陰神社は東京都にもあり、安政の大獄で連座させられて刑死したのは江戸の出来事なので縁がないとは言えないのだが、やはり松陰先生には山口県で会いたい。

 その松陰神社と松下村塾は隣接しており、現地の案内図でも同一のエリアとして掲示されている。場所は萩城下町の東寄りとなる旧松本村。前回、今回と何度か紹介している「萩循環まぁーるバス」は、西回りコースが「晋作くん」、東回りコースが「松陰先生」と名付けられているが、これは(身分が高めなので萩城に近い)町の西寄りに住んでいた高杉晋作、町の東部にある旧松本村で身分問わず学べる松下村塾を開いた吉田松陰、という地理を反映しているようだ。最寄りのバス停はもちろん東回りコースの「松陰神社前」だ

「松陰神社境内図」。左手の駐車場から参道を歩いて行くと左手に松下村塾が見えてくる

 松陰神社へ向かう参道を歩くと左手に松下村塾が見えてくる。下に掲載した写真を見て、「この場所、見たことある」という方も多いのではないだろうか。さまざまな書籍、TV番組などで目にする機会が多い場所だけに、これまで見てきた史跡以上にリアルに歴史の舞台であることを感じることができる。講義室も外から見やすいよう開放されている。

 ここに隣接して建っているのが「吉田松陰幽囚ノ旧宅」だ。吉田松陰は元々は杉姓で、吉田家に養子に入ったことで改姓している。この建物は、松陰の父である杉百合之助の旧宅であり、吉田松陰が謹慎していた「幽囚室」がある。ちなみに、松下村塾と並んで、この吉田松陰幽囚ノ旧宅もユネスコの世界文化遺産に登録されている。

 吉田松陰の謹慎については説明が必要かも知れない。アメリカのペリー提督一行が日本にやってきた、いわゆる「黒船来航」は1853年の出来事であるが、翌1854年に日米和親条約を締結するために再来日し、伊豆下田沖に停泊した期間があった。吉田松陰はこの時に黒船に乗り込んで海外留学をしようとしたのである。そして捕らえられ、釈放後に父の杉百合之助預けとなって、同宅に謹慎した。吉田松陰というと、まさに「松陰先生」そのままに、座って教鞭をとっているイメージが強いが、こんな血気盛んな若い頃のエピソードもあるのだ。謹慎中の吉田松陰は読者と著述に明け暮れたと言われており、吉田松陰幽囚ノ旧宅には本を読みながら米つきをできるようにした台も残されるなど、当時をうかがえるスポットだ。

 また、松下村塾、吉田松陰幽囚ノ旧宅とも日本家屋としての趣も素晴らしく、建物の内部や庭を見ていると、歴史の舞台に立っているという興奮とともに、どこか穏やかな心になれる清々しさを持った場所だった。

松下村塾
松下村塾入り口の門
松下村塾を草書で書いた札が目を引く
講義室。若い志士たちがここに座っていたと思うと興奮する
吉田松陰ほか松下村塾で学んだ志士、著名人の肖像が飾られていた
「吉田松陰幽囚ノ旧宅」。松陰の父である杉百合之助の旧宅。古い日本家屋としての趣や、米つきをしながらでも本を読める台など見どころが多い
吉田松陰を祭った「松陰神社」
松陰門下生を祭った「松門神社」。今の社殿が建てられるまでは、この建物が松陰神社社殿だった
松門神社に祭られた52名の門下生や塾生
「明治九年萩の變七烈士殉難之地」。前原一誠らによる士族反乱の1つである1876年の萩の乱に関するものも同地にあった
大正15年(1926年)5月に時の皇太子、つまりのちの昭和天皇が行啓した地であることを記念した石碑

日本に2つしか現存しない反射炉「萩反射炉」

「萩反射炉」

 さて、萩の歴史、世界遺産を味わう時間もこれで最後の場所となる。それが「萩反射炉」だ。萩の城下町からは北東へ離れた場所にあり、萩循環まぁーるバスの東回りコース(松陰先生)に乗って「萩しーまーと」バス停まで行く。ここから徒歩でも5分ぐらいで訪問できるし、この地区の世界遺産である「萩反射炉」「恵比寿ヶ鼻造船所跡」をまわる観光シャトルバスも期間限定で運行している(http://hagishi.com/news/detail.php?a=2015071215240264)ので活用するとよいだろう。

 反射炉とは金属溶解炉の一種で、燃焼室で焚いた燃料の熱を炉内で反射させて、金属の溶解室(路床)に熱を集中させる構造であることから反射炉と呼ばれる。幕末期には鉄製の大砲を作るニーズが高まり、幕府の韮山反射炉、長州藩の萩反射炉のほか、佐賀藩、薩摩藩らで作られた。そんななか萩反射炉は、日本に現存する反射炉としては韮山反射炉とここだけという高い価値があり、もちろん世界遺産にも登録されている。

 その建造の経緯も面白い。反射炉を作る際に、すでに反射炉を建造していた佐賀藩に技術協力を求めたが拒否され、スケッチだけが許された。そのスケッチをもとに作られたのが萩反射炉だ。実際に大砲を製造した実用反射炉ではなかったという説が有力ながら、試験反射炉として稼働した形跡はあるそうだ。技術的な支援はなく“見て作った”に近いというところ、そしてそれを実際に稼働させたということには興味をそそられる。

 ちなみに、萩反射炉で現存しているのは煙突部分のみで、燃焼室や熔解室などは残っていない。それでも、当時の製鉄技術の一端を見られ、この時代の人達の情熱と執念を感じられるスポットだ。

萩反射炉に現存する煙突。先で2本に分かれているように見えるが、それぞれ独立した2本の煙突となっている
トンネルの最下部。この手前に熔解室(路床)や燃焼室があったと考えられている
トンネルの裏手側。熔解室(路床)で解けた鉄が流れ出てくる出湯口や、のぞき窓がこちら側にあった
反射炉の説明
QRコードが書かれた看板が立っており、アクセスするとドラマ仕立てで萩反射炉の紹介動画を見られる

 このように幕末の志士や明治期の著名人を多く輩出した松下村塾。明治維新の年である1868年から、2018年で150年を迎えることから、山口県ほか鹿児島県、高知県、佐賀県で「平成の薩長土肥連合」が設立されるなど、カウントダウンに向けた動きが活発になってきている。

 幕末期は日本が大きく揺れた時期ではあるが、1853年の黒船来航から大政奉還、明治維新へと動いた期間はたった15年足らずと長くない。今年から2018年までの3年間を見ても、2015年は元号が慶応になってから150年、来年2016年は薩長同盟締結や第2次長州征伐から150年、2017年は高杉晋作死去、そして大政奉還から150年と、毎年のように150周年を迎える出来事が続く。

 今後なにかと注目を集めそうだし、記念行事も開かれるだろう。そうしたことをきっかけに訪れてみるのもよいかも知れない。また、実際に訪れてみると、なにより古い街並みや家屋がよい状態で残されていることに感心する。その情景は、歴史好きでなくても楽しめると思うので、むしろ城下町の風情を楽しみに萩を訪れたことをきっかけに歴史に興味を持ってくれる人が増えたらうれしいな、とライトな歴史好きである筆者は期待するのである。

 さて、なんとなく萩の話が終わった雰囲気を醸し出しているが、このプレスツアーではもう少し萩を巡る。ただし次に訪れるのは歴史に関する場所ではなく、海の幸を存分に味わえるスポットだ。

編集部:多和田新也