旅レポ
フェルメールが生涯を過ごしたオランダ・デルフトへ。アムステルダム国立美術館で開催中の大回顧展レポート
2023年4月18日 06:00
現存するヨハネス・フェルメールの絵画37点のうち、28点が見られるという史上最大規模の大回顧展がオランダのアムステルダム国立美術館で公開されています。会期は2023年2月10日から6月4日まで。この展覧会が開幕する直前に、メディア向け内覧会を見学してきました。
本稿では、展覧会の見どころと、最新研究で今分かっている事実、フェルメールの生誕地であり生涯を過ごした「デルフト」の街をレポートします。
1日目:スキポール空港からフェルメールの故郷デルフトへ、意外にも駅近イビスホテルに大満足!
成田からKLMオランダ航空で約14時間、初北回りフライトを体験し夕方17時過ぎにはアムステルダムへ到着。18時46分発ライデン経由の列車に乗り、19時半過ぎにデルフト駅へ着きました。デルフトはアムステルダムの南南西約67kmに位置。デルフト駅は意外に近代的で広々としていてびっくり。
外に出るとすぐ隣にはクラシックな旧駅舎があります。その正面を通って目的ホテル「イビス・スタイルズ・デルフト・シティセンター(Ibis Styles Delft City Center)」へ向かいましたが、なんと駅から歩いて3分もかからない至近距離。
このイビスホテル、後日アムスのホテルに泊まってみて分かったのですが、デルフトの街の中心、それも駅近、料金も手頃で超コスパに優れたホテルだったのです。2021年4月開業とまだ新しく、部屋は清潔感にあふれ、デルフト&オランダを訪れるならお勧めのホテルです。参考のために2月半ばの料金をチェックしてみたら、3泊で4万円ちょっと。ご存じの方も多いかもですが、同じ予算でアムスのホテルを探そうとすると雲泥の差、なのです! こらからはデルフトに泊まって、アムスにたまに行く、というような旅もよいかなとおもったほどでした。
2日目:初日の月曜の朝、街中を軽く散策。デルフトにIKEA本社がある理由がおもしろかった!
翌日は朝からロケハンを兼ねて街中を軽く散策してみることにしました。とにかく、初めて見るデルフトの歴史地区は、おとぎの国の世界に紛れ込んだかのような……ちっちゃくて美し過ぎる感動的な街でした。
観光の中心となる歴史地区(旧市街)は約500m四方ほどの広さで、半日でも十分に回れるサイズ感もナイス! 運河が縦横に走り、古い中世のレンガ造りの佇まいを残しています。ただ古いだけの街だけではなく、歩いてみるとオシャレな雑貨店やかわいらしいチョコレート専門店、パン屋などが目につき、またインテリアの素敵なカフェやバーも多くて、しばらくはこの街に留まりたいなあ、と心から思える街なのです。
まずは、街の簡単な説明から。フェルメール代表作「デルフトの眺望」でも知られるデルフトは、オランダを独立に導いたオラニエ公ウィレム1世が1572年から没年1584年まで住んでいた町です。17世紀の全盛時代は史上初の多国籍企業である「オランダ東インド会社」の寄港地の1つとして栄え、ネーデルランド有数の地方商業都市でした。デルフトは運河を利用すれば、短時間で直接北海へ出られるという好立地に恵まれていたからです。そしてデルフトブルーと呼ばれる藍色と白の陶器「デルフト焼」でも有名です。
それと忘れてならないのが「デルフト工科大学」(1842年創立)の存在です。オランダは世界第2位のIT農業国として知られていますが、バイオテクノロジーや土木工学、宇宙工学もここで盛んに研究されていて、宇宙食も注目されています。宇宙旅行も一般人が行ける時代、どんな研究をしているのかも興味津々です。そういえば、イビスホテルのロビー入口に宇宙服を着たオブジェがありましたが、そういうことだったのか、とあとで気付きました。
そして、これは20年近く現地に住む知人から聞いた話ですが、デルフトにはごく平均的な思考や興味を持つヨーロッパ人が住んでいる、とされています。日本でも人気のIKEA本社はデルフトにあり、試験的な商品を作ったらまずはこの街で販売してみて、成功したら全ヨーロッパ各国の展開へと進めているとのこと。なので、デルフトの本店は常に最新デザイン商品が揃っているそうなのです。IKEA好きの方は要チェックですよ。
「デルフトの眺望」が描かれたというスポットへ行ってみると、フェルメールの絵画のなかの光に満ちていました!
初日の午前中の散策の最後に、フェルメールが「デルフトの眺望」を描いた、といわれているスヒー門近くのホーイカデ通りに足を運んでみると、そこから見る景色はフェルメールの絵画のなかの光そのものなのです。偶然、この日が花曇りだったせいかもしれませんが、この旅の一番の感動は、デルフトでこの「光」に出合えたことです。
約350年前、フェルメールが描いた頃の光と影、その空気感を、現在でもこのデルフトという地で体験できること。なぜ、フェルメールがデルフトを生涯離れずに、この地で創作活動を続けた理由も、ここに来て初めて理解できるはずです。
ホーイカデ通りから次の目的地「ロイヤルデルフトミュージアム」へ歩いて向かう途中、住宅地の家々のガラス窓がやたらと大きくて、ほとんどの家にはカーテンが付いておらず、リビングまで丸見えであることに気付きました。どこもオシャレな内装で、テーブル中央に花が飾ってあってきれい。なぜ、外からガラス越しによく見えるようにしているのか、現地在住の人に尋ねてみると、昔から「身の清廉潔白を証明するために、うちは何も隠しはしません」という意味もあるそう。
それと運河が多いので、船が通過するときは、運河に架かる橋そのものが船が通りやすいように川に沿って縦に移動します。そのために運河で船の通過待ちの赤信号によくかかるのです。デルフトは自転車通勤や通学が多く、ちなみに遅刻の言い訳ベスト3は「橋が上がった、自転車のパンク、寝坊」とのこと(笑)。
午後は青と白の陶器「ロイヤルデルフトミュージアム」見学&ランチ
陶器好きならデルフトブルーで知られる「デルフト焼」の工房に併設された「ロイヤルデフルトミュージアム」はハズせません。2023年11月22日、展示スペースが新たに設けられリニューアルオープンしているというので訪ねてみました。
館内にはカフェもあって、ランチやお茶が楽しめます。まずは、この時期の期間限定のフェルメールコースランチをいただいてみました。この日はツナのオープンサンドとアスパラガスのスープ、ジンジャーティーを選択。デルフトブルーのお皿が使われています。3つのコースがあって18.50ユーロ。
ランチ後はミュージアムを回りながらデルフト焼の歴史や展示作品についての説明を受けました。映像と日本語音声で詳しく学べます。
簡単にその説明を要約します。14世紀の終わり頃から水運業が栄え、ビールや織物業が興っていたデルフト。17世紀オランダの黄金時代になると、オランダ東インド会社が輸入を始めた中国磁器(青花磁器)の藍色の染付技術にヒントを得て、デルフトでも陶器が造られるようになりました。オランダ人は、1603年に初めてオランダに運ばれてきた青と白の清楚な青花磁器の美しさに魅了されたといいます。日本の伊万里も取り入れて独自のデルフト焼が完成し、旧ビール工場跡地のほとんどは陶器工場となったそうです。最盛期には34の工房があったといいます。
18世紀半ばころ、英国で安価で磁器のような質感を持つ硬質な「クリームウェア」と呼ばれるウェッジウッド陶磁器が開発されると、土もののデルフト焼は衰退していき、1840年頃には34もあったデルフト焼工房もロイヤルデルフトの前身である「デ ポルセライネ フレス」1社となりました。そこで、1876年にデルフトの技術者ヨースト・トーフト氏がこの工房を買い取り、オランダでも磁器の材料となるカオリンが入手できるようになると、白地の高品質の陶器を作れるようになり人気を巻き返して、今に至ります。
最初の展示室では、デルフト焼の初期のころの作品が展示されています。前期のデルフト焼は、景徳鎮の青花磁器や日本の伊万里をマネて、まずは白い釉薬をかけて白地の下地を作りその上から絵付けをしていたそうで、当時お手本とされた本物の磁器とデルフトでマネて作られた陶器が並べられて展示されていて、その違いをつぶさに見ることができます。
1919年には王室から「ロイヤル」という称号を与えられ、それによって、王室にちなんだ記念プレートを特注で作るようになったそうで、その記念プレートも飾られていました。
1915年から毎年作られている枚数限定のクリスマスのプレートもあります。
筆者がもっとも感動したのは、1910~1930年頃に作られていたという陶器の建材、壁や床、タイルなどを展示しているショールーム。波打った柱や、まるで絨毯のような緻密なタイル模様など……これが陶器で作られているのかと思うと圧巻でした。中庭に面して、教会向けに回廊やファサードなども残されていました。
こちらでは、2023年はアムステルダム国立博物館の大フェルメール展に合わせて、フェルメールに関する企画展や催しが予定されています。絵付け体験ワークショップでは、4つのフェルメール作品の絵柄から一つを選んで体験できたり、4月17日から9月10日までは企画展「青、花、そしてフェルメール ― 写真家バス・ミューズ氏のレンズを通して」が開催され、カメラマンの感性で写真と絵画が一体化した作品の数々が楽しめる、とのこと。
「ロイヤルデルフトミュージアム」から歩いて街の中心に戻って、再び街を散策。早めの夕食を、と店を探すも、月曜日はほとんどよいお店は閉まっていて、仕方なくイビスホテル近くの旧駅舎内にあるイタリアン「パバロッティ」へ。店内は広大で、割と混んではいるといっても、奥のよい席に座れてゆっくりと疲れを癒しながら食事できました。このパバロッティ、お味もまあまあなので食事処に困ったらオススメです。
3日目:まるでフェルメールまつり! 内覧会前にフェルメールにちなんだランチ体験
さて、いよいよフェルメール展の内覧会。13時からアムステルダム国立美術館に併設するミシュラン1つ星レストラン「ライクス(RIJKS)」でランチだったので、10時にアムステルダム中央駅に到着するようにデルフトを出発。大都会アムステルダムに到着して外へ出ると、気持ちのよい快晴。
アムステルダムは、2018年の6月に一度訪れていますが、アムス駅からスタートする王道の街歩きは初めてでした。17世紀はオランダ国の繁栄のピーク期。当時は世界でも有数の貿易都市でしたが、初めてアムステルダム中央駅を背に、賑やかな運河沿いの大通りを歩く間、古くからスケールの大きな港町であったことが肌で実感できました。
約25分ゆっくりと街を歩きランドマークなどを撮影しながら、アムステルダム国立美術館へ到着。
ランチは、とびきり美味な冷えたシャルドネ乾杯からスタート。
いよいよ本番のフェルメール展内覧会。28点もの作品が集まったその背景は?
「フェルメール本人も、28点もの自分の作品すべてを一堂に見たことはなかったでしょう……」と話すのは、アムステルダム国立美術館館長のタコ・ディビツさん。今回は世界7か国の美術館や個人コレクションからフェルメールの絵画が集められています。フェルメール作品は37点しか現存しておらず、どの国でも人気作家で、だからこそフェルメール作品は、どの美術館でも「お宝」扱い。長期間、海外に貸し出すこと自体がなかなか難しいのに、28点が集結するというのは稀有なことです。
今回はアムステルダム国立美術館のフィリップスウィングの10の部屋を贅沢に使って、11のテーマに分けて時代順に展示しています。広々とフェルメールの絵だけが展示されている、というのもかつて経験はなく圧巻でした。
なぜこの時期に史上最大規模のフェルメール展が開催されるのか、というと、それはニューヨークのフリックコレクション美術館が改装工事に伴い閉館するタイミングだったため。この美術館は門外不出のフェルメール絵画3点を所持しており、この3点を含む全7点は200年ぶりにオランダで公開されています。
「真珠の首飾りの少女」と「牛乳を注ぐ女」以外で、筆者の心に残った作品を額入り、部分キリヌキを織り交ぜてご紹介します。
最新の研究で分かってきたこと
世の中のデジタル化が進むなか、フェルメール絵画の研究も年々進んでいます。今回の大回顧展で、新たに注目すべきは下記の3つです。
(1)最新の研究により、フェルメールの当時の社会的地位や、創作の場となったデルフトでの生活環境、他アーティストや住民との関わりなどが分かってきたこと。
(2)最新スキャン技術により、例えば「牛乳を注ぐ女」では一度描いていた水差し掛けが意図的に消されていることが分かりました。また、ハイレゾリューション機能をもつマイクロスキャナで、90回ものスキャニングをして、「青衣の女」のようなジャケットの袖の裏側のことまで分析できたことなど。
(3)フェルメールの絵画は、遠近法が使われています。小さな穴を通る光によって像が映し出される光学機器「カメラ・オブスキュラ」を利用していたと推測できたこと。フェルメールは結婚後、プロテスタントからカトリックに改宗しており、その後、カトリックのイエズス会との関わりが深く、イエズス会がこの「カメラ・オブスキュラ」をフェルメールに提供したのではないか、という事実も分かってきました。
マイクロスキャナでの調査は今後も続き、フェルメールの没後350年となる2025年にアムステルダム国立博物で開かれる国際シンポジウムで発表されるということです。
絵を鑑賞しながら、最新研究結果が分かる斬新な展示
フェルメールの作品はこれまで何度か鑑賞したことがありますが、今回のような、最新の研究の結果を織り交ぜて、例えば下記のように、3つの特徴的な部分をクローズアップする紹介の仕方は初めてでした。作品の解釈もより深くなります。
こちらは「士官と笑う女」。3か所をクローズアップして、(1)ここでは遠近法が使われていて「カメラ・オブスキュラ」を利用した可能性があること、(2)「牛乳を注ぐ女」のように、多数の点を使って描写していること、(3)この窓枠で白を使うことで、屋外の強烈な光を表現している、と説明しています。
もう1つ例を挙げると「窓辺で手紙を読む女」。(1)フェルメールはここで初めて点と線を使用しており、例えば髪の毛を線で描くのではなく、さまざまな色を重ねて仕上げている。(2)最初ここに大きなワイングラスを描いていたが、緑のカーテンで上塗りしている。(3)後ろの壁にかかったキューピッドが2つの仮面(欺瞞を表わす)を踏みつけている絵。その意味は明確で、真の愛には偽りがあってはならないという、手紙を読む若い女性への警告を意味しています。
展示は、年代順を意識しながらも、「初期の野望」「インテリア」「屋内と屋外のバランス」「文学」「音楽の誘惑」「世界」など11のテーマに分かれています。
フェルメールのいったい何がすごいのでしょう?
フェルメール作品の魅力と言えば、静謐な室内画、穏やかな空気感、透明感のある色彩、そして選び抜かれたモチーフに、計算しつくされた構図や形……などとよく言われています。
とにかく、日本でも大人気で、フェルメール研究家も多く、図書館に行けば溢れんばかりの資料が見つかります。
「同時代のほかの画家たちは、1つの作品にこれでもかと自分の才能を吐き出す。しかし、それと対照的にフェルメールには引き算の美学がある」という専門家がいます。確かに、同時期の作家の似たような作品を見ると、1枚の絵のなかにいろんな要素がテンコ盛りです。フェルメールの作品では人物はほぼ1人か2人、シンプルで、見る人に安らぎを与えてくれます。
アムステルダム国立美術館の館長タコ・ディビツさんは、「フェルメールの絵の特徴は、人物やモノの輪郭ではなく、まず光がものにどう当たっているかにフォーカスしていること」と話します。実物に忠実に描かれたドレスのパフスリーヴや、スカートのヒダの光の当たり具合など、光と影のバランスも完璧。「フェルメールはカメラができる前の『写真家』である」という作家もいるほどです。現代人は普通にスマホで写真を撮って見てはいても、このような細部の光の陰影に気が付いているでしょうか。
ゴッホが「絵画は、自分の身のまわりにある平凡な美しさを見せてくれる」と名言を残していますが、まさにそのとおりで、フェルメールが描くなにげない日常の光景が、後世に生きる私たちに、オランダ経済絶頂期の庶民の暮らしと幸福感を伝えてくれます。一つひとつの作品のなかの暮らしを旅するような楽しさがありました。
今回28枚もの絵を一気に見ることで筆者なりに気付いたことがあります。
(1)フェルメールは同じ黄色い毛皮を着た女性を何度も描いていること、そして、まるで手で触っているかのような、よく観察し緻密な描き方をしていること。
(2)描かれた衣装が、とてもファッショナブル。当時のオランダの裕福さや文化が理解できます。窓の美しいステンドグラスや、ペルシャ絨毯、市松模様の床など、インテリアの趣味や当時の暮らしぶりが見えてきます。
(3)ほとんどの作品は静かな室内画であるのに、晩年に描かれたとされる「信仰の寓話」はショッキングでした。これは、カトリック教徒のパトロンのために描かれたとされていますが、「信仰は思慮深い女の座像によっても表わされる……」という寓意図集を絵画化したものらしいのですが、はやり真にその意味を理解するには旧約聖書を少しかじっておいた方がよさそうです。
室内画の背景に描かれている宗教画や風景画などの絵画も当時の人気のものだったのでしょうか。また旅好きとして気になったのが、室内の背面にかかっている地図でした。当時のオランダ地図やヨーロッパ地図、地球儀を見る天文学者……当時の人々も、地図をみて、旅心を揺り動かされていたのだろうか、と想像させられました。
内覧会が終了したあと、世界から集まったメディアとともに大型バスでデルフトに戻り、ビュッフェレストランで夕食をいただいたあと、すぐにホテルに戻りすぐに就寝。
4日目:「プリンセンホフ・デルフト博物館」のフェルメール展も必見!
最終日は、早朝からデルフト観光へ出かけました。まずはもっとも重要な「プリンセンホフ・デルフト博物館」へ。この博物館は、オランダを独立に導いたオラニエ公ウィレム1世が12年間住み、そして銃殺された屋敷で、デルフトの歴史を物語る数々を展示しています。ここでは、アムステルダム国立美術館のフェルメール展期間(2023年2月10日~6月4日)に合わせて、「フェルメールのデルフト」展が開催されています。
オランダでフェルメール展を見る予定の方は、この「フェルメールのデルフト展」も一緒にセットで見ておくべきです。なぜなら、フェルメールが世界的に有名な画家になった背景、生涯で深くかかわった人々、デルフトの芸術家組合「聖ルカ組合」で影響を受けた画家、仕事でのネットワークなどが、豊富な資料とともに分かりやすく紹介されていて、時代順に、そしてビジュアル的にも楽しめるからです。
その前に、フェルメールの生涯を箇条書きで紹介します。ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、オランダのデルフトで生まれ、生涯をこの地で過ごしました。資料によると、実家の借金返済に追われていたこと、14~15人の子供に恵まれ、寡作だったこともあって、常に生活に貧窮していたとも言われています。
・美術商の父をもち芸術に囲まれた環境で育つ。
・15歳で画家としての修行をはじめる(ユトレヒトでの可能性が高い)。
・20歳で父が他界しデルフトに戻る。
・21歳で裕福な家の娘カタリーナ・ボルネスと結婚。と同時にプロテスタントからカトリックに改宗(義理母マリア・ティンスの意向によるとされる)。
・30歳で聖ルカ組合の理事となる。
・35歳で「デルフト市誌」でファブリティアスの跡を継ぐ画家と称賛される。
・40歳でハーグに呼ばれ、イタリア絵画の鑑定をする。
・43歳で、妻の実家にて没。旧教会に埋葬される。翌年、妻カタリーナは夫の死から4か月後に自己破産申請をして認定される。
画家としてのキャリアや関わった人々、環境がつぶさに分かる展示
フェルメールが売春宿の様子(新約聖書の「放浪息子」のたとえ話を描いた作品)を描いた「プロキュレス(取り持ち女)」がありますが、影響を受けたかもしれないのが義母のマリア・ティンスが所有していた、ファン・バビューレンの「取り持ち女」。この実物の絵画が展示されています。
フェルメールは、デルフトの著名な画家レオナルド・ブラマーや、美術収集家のウィレム・デ・ラングなどと交友があり、オランダ国内や海外のいろいろなジャンルの絵画を知ることができたこと、また1653年に「ルカ組合」の親方画家となりますが、この組合がフェルメールにとって重要な存在だったこと、そこには画家だけではなくて、ガラス職人、陶工、印刷業者、カーペット織工、版画家、彫刻家、美術商など、さまざまな芸術分野のアーティストや芸術に関する職人がいて、影響をうけていたことなども分かります。
地図、版画、素描、本、伝記文書、そのほか、のアーカイブ資料から、17 世紀のにぎやかな都市の雰囲気が描かれます。
フェルメールの絵画に出てくるデルフト焼や、テーブルクロス、トルコのオルトラン産絨毯、鏡なども展示されています。
17世紀のデルフトの地図。当時の人口は約2万5000人でした。