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たまたま立ち寄った「6日後に破綻する百貨店」。消えゆく地方の百貨店、原因は競合だけにあらず?

中三弘前店の外観。建築家・毛綱毅曠氏の設計によるものだ

あまりに突然の閉店・破綻。名門百貨店に何が起きた?

 かつて全国の各都市には、その地域の象徴となるような百貨店が、当たり前のように存在した。しかし、長らく続く百貨店業態の低迷や市街地の空洞化、郊外のGMS(総合スーパー。イオン、イズミなど)への顧客の流出などで、各地とも姿を消しつつある。

 人口約17万人を擁する青森県弘前市で、1962(昭和37)年から営業を続けてきた「中三弘前店」は、「地域の象徴的な百貨店」の代表格であった。しかし2024年8月29日、同店の運営会社(株式会社中三)が青森地裁より破産手続きの開始決定を受け、同社で唯一の店舗であった弘前店は、前日をもって完全閉店となった。60年以上もこの地で営業を続けてきた百貨店の最期はあまりにも突然で、職場を失った社員の方の心痛は、察するに余りある。

 実は、筆者は最後の営業の5日前(8月24日)に、別の取材のついでに「中三弘前店」に立ち寄っていた。もちろん最後の訪問になるとは想像していなかったが、いま思い出すと、かなり不審な点も思い浮かぶ。まずは、わずか数日前の「5日後に突然閉店、6日後に破産する百貨店」の記憶をたどってみよう。

人気テナント退去で学生消滅、魅力ある商品もなく……来訪で感じた「中三消滅」の気配

中三弘前店の「蓬莱広場」側玄関。ほか道路側の入口もある

 この日は別の取材予定があり、地域事情のヒアリングを兼ねて同行をお願いしていた友人(五所川原市出身)ともども「地下のフードコートに、どうしても寄りたい!」という意見の一致による来店であった。

 筆者はフードコート以外に入るのは10年ぶりであったが、店内全体の暗さと老朽化、必要以上に節電を行なっている様子には驚かされた。土渕川沿いから入る玄関口から1階フロアに入る階段数段分、長さ2mほどのエスカレーターは「節電のため停止」の看板がかかったまま動いておらず、この高低差は高齢者にはつらい(ほかもう1か所入口あり)。

 エントランスは開放的な吹き抜けのガラス張りではあるものの、肝心のガラスに汚れが目立つ。外からの光が差し込まない場所は少々薄暗く、天井を見上げると、照明を間引きしていたような気配があった。

 ただ各店内の売り場は至ってピカピカであった。アパレルコーナーではメイン通路沿いだけ売り場を一部だけ後ろに引いて訴求空間を演出、スポット照明を巧みに組み合わせるなど、最低限の販促費用と創意工夫で、売場の高級感を維持している様子がうかがえた。全体的に展示商品が少なく、いま考えると、複数の店が売り場を後ろに引いていたのも「仕入れが止まって、店頭に出す商品がなかったのでは?」という気がしないでもない。

 また平日の夕方なのに、2階から上で来客は2~3人しか見かけなかった。中三弘前店ににぎわいを生んでいた「ジュンク堂書店」が数か月前に撤退したこともあり、5階から上は「リニューアル予定」の看板がかかったままフロアごと閉鎖。同行の友人いわく「書店に訪れていた学生(この一帯は高校・大学が集積している)が来なくなり、シャワー効果(上階の人気テナントから下階に来客を回遊させる施策)が消し飛んだのでは?」とのこと。

 またテナントも1階レストランが全国チェーン(カプリチョーザ)、地下の食品フロアも郊外のスーパーで買えるような物品しかなく、「弘前の百貨店だから買える、体験できるもの」を、ほとんど見かけることができなかった。また全体的に展示商品が少なく、地下階のケーキや菓子のショーケースですら、少ない在庫をめいいっぱい横に広げての陳列が見られたほどだ。

 ただ、ラーメンの名店「中みそ」(相変わらずのガツンと来る美味さ!! これよこれ!!)が入居する地下フードコートだけは絶え間なくにぎわい、建物内の座席と半地下構造の野外テラスには30人~40人ほどが滞在。ほかのフロアへの滞留客よりは明らかににぎわっていた。もっともテラスに日向ぼっこに来ただけのご高齢の方も多いようで、その雰囲気は百貨店というより、公民館や寄合に近い。

 全体的に「百貨店としては完全に迷走しているが、優秀なテナントと店員さんの創意工夫で持ちこたえている」状態であった。店内を回遊する人々を含めて、ほとんどの来客がフードコート以外のテナントに収益をもたらしておらず、「中三は五所川原の誇り」(同店は五所川原市発祥)と語る友人ともども、店の行く末を心配していた……が、まさか「5日後に閉店、6日後に破産」とは、誰が想像できただろうか?

土手町内で競争→vs. 弘前駅前→郊外の量販店。百貨店の敵は四方八方に

土手町の立体駐車場。タワーに記された「ルネス街」はかなり昔の名称だ

 ここからは、「中三弘前店」だけでなく3軒もの百貨店がしのぎを削っていたという弘前市土手町の歴史、そしてクルマ社会の到来だけが原因ではない、弘前盆地の「小売店ウォーズ」の歴史を遡ってみよう。

 名城・弘前城の城下町として知られる土手町だが、この地で戦後にしのぎを削ってきた3軒の百貨店のうち、地元・弘前の発祥は「かくは宮川(ハイローザ)」(弘前藩の御用達商人。1923年~1998年)のみ。「カネ長武田百貨店(ダックシティ)」(1971年~1993年)は青森市、そして「中三」は商都・五所川原市で「マルキ飛島」「丸友」といった百貨店を相手に勝ち抜き、1962年に満を持して弘前進出を果たしている。

 高度成長期にさしかかる昭和30年代、40年代には「弘前に遊びに行く」といえば目的地は土手町であり、3軒の百貨店だけでなく商店街や、いまは「イギリストースト」製造元として有名な「工藤パン」の直営レストランなどがにぎわっていたという。なお工藤パンもむつ市発祥であり、城下町・弘前は百貨店事情も含めて「市外資本に寛容な街」と言えるかもしれない。

 また今は「中央弘前駅」止まりである弘南鉄道大鰐線(開業当時は「弘前電気鉄道」)も、北進して中三弘前店の近くを抜け、北側の板柳町への延伸を目指していたという。土手町は間違いなく、弘前の中心地であったのだ。

弘前盆地での小売店業態の競合(地理理院地図に筆者加工)

 土手町への人流の流れが変わり始めたのは、奥羽本線・弘前駅前の「弘南ビル」テナントとして、1976(昭和51)年に「イトーヨーカドー弘前店」が開店してからのことだ。

 同ビルは弘南バスのターミナルと巨大な駐車場を併設しており、バス路線もこのターミナルを起点として大幅に再編された。郊外からのクルマ利用者、バスでの来訪者にとって、この時点で「土手町に行かなくてもよい」という選択肢ができたといえるだろう。

 さらに土手町は駐車場を設ける土地スペースがなく、冬には雪だまりで道路が狭くなり、クルマのすれ違いも困難になるという、道路事情の致命的な問題を抱えていた。そこに、2006年には西側郊外に「イオンタウン弘前樋の口」が開店。ほか南側(大鰐町方面)には「イオンタウン安原」、東側(黒石市方面)には「弘前城東タウンプラザ」、北側には「イオン藤崎店」……。人流を血液で例えるなら、心臓部にある土手町へ流れる血が、ほぼシャットアウトされてしまったようなものだ。

土手町を出る? 百貨店形態を守る? 弘前の百貨店・三者三様の生き残り方

中三弘前店前の道路

 この変化のなかで、土手町の3軒の百貨店は、生き残りを駆けた戦略を、次々と打ち出した。

 まず「かくは宮川」が、呉服店系百貨店ならではのアパレル・ファッションの強みを活かし、1980年にファッションビル「ハイローザ」に業態転換。後述する中三のリニューアルに押されて1998年に閉業するが、土手町の象徴として十分に存在感を発揮した。

「カネ長武田百貨店」は各地の独立系百貨店と広域連合で手を取り、ニチイ・マイカル傘下の「ダックシティ」として仕入れの効率化などを図るも1993年に郊外に移転、土手町を去った。その後はマイカル破綻・グループ離脱などの紆余曲折がありつつも、全国的にもめずらしい郊外・複合型デパート「さくら野百貨店弘前店」として、週末には巨大な駐車場が軒並み埋まるほどのにぎわいを見せている。

 そのなかで中三弘前店は、建築家・毛綱毅曠(もづなきこう)氏の設計によるガラス張りの店舗への改装で売場面積を倍増させ、3軒のなかで唯一「中心地の百貨店」のままで生き残りを図った。また中三自体も、青森市・岩手県盛岡市などへの進出で拡大路線を取っていたこともあり、弘前店の好調もあって、最盛期の1998年には年間売上約415億円を記録している。

 しかし最大規模での進出であった秋田市出店でつまずき、2011年に発生した東日本大震災の影響もあって、経営難に陥る。民事再生法の適用で一度は体制を立て直したものの、最終的には店舗は弘前店1店のみに。売上も2023年8月期には約17億円まで落ち込み、9億円の累積赤字に苦しんでいたという。

 こうして振り返ると、土手町の3軒の百貨店は、「業態転換で強みを活かす」(かくは宮川・ハイローザ)、「大手傘下に入り、郊外に活路を見いだす」(カネ長武田百貨店)、「地方都市の中心地で百貨店としての体制を堅持」(中三弘前店)と、三者三様だ。

 弘前市土手町の百貨店3店・3社、そして働く人々の運命は、中心街の立地と百貨店業態へのこだわりによって分かれた。中三弘前店が消えゆく今、かつて百貨店3店が生き残りを駆けてしのぎを削った土手町を歩き、生きた歴史を観察して、目に焼き付けるのもよいのではないか。

他人ごとではない? 土手町に見る「古びた商業地をどうするか」問題

弘前城は桜の名所としても知られている

 弘前市で起きた名門百貨店の突然の終焉は、「機能が低下した商業地をどうするか」という、弘前に限らず全国各地(東京・大阪も含めて)に共通する問題を指し示す。

 先に述べたとおり土手町は、弘前駅から1.5km、地域最大の幹線道路である国道7号(弘前バイパス)からも2km以上離れている。JR奥羽本線が国道エリアと市街地を分断していることや、道路事情から考えても、土手町が商業の中心地として老若男女を集めることは、もはや難しいように感じる。

「古くからあり、駅から離れた商業集積地」は、再開発が進む主要駅の商業施設(駅ビル・駅前百貨店)と、郊外の量販店の両方と戦う必要があり、駐車場や道路事情、土地の狭さによる増床の困難さで集客策に苦心している(土手町と似た条件だと、和歌山市・ぶらくり丁、盛岡市・肴町・中ノ橋一帯、宇都宮市・二荒山神社周辺などか)。

 こういった地域での再開発は、商業地としての機能を残さないと紛糾の素となってしまうが、そのままの形で再度商売を始めても、同じ轍を踏んで数年で失敗、というケースもある。再開発を行なう行政にとっても、地域の意向にそのまま沿えるか、そうとうに難しい判断となる。

 幸いにして土手町は弘前城にきわめて近く、レトロな純喫茶やシードル(りんごの酒)を製造していた倉庫など、好きな方には猛烈に刺さりそうなスポットが、今もずらりと揃っている。中三弘前店の売却・解体が話し合われる今、土手町を活かすには、「桜の季節」に頼らない観光地として、街の役割を思い切って振るしかないようにも見える……が、そこは地元の方々も含めて、慎重な協議が必要であろう。

2014年に撮影したローカルアイドルのライブ。弘前市は「りんご娘」の活動拠点でもある

 中三弘前店の建物は、アイドルグループ「RINGOMUSUME(りんご娘)」のヒット作「Ringo disco」のMV撮影にも使われ話題となり、この地域には少ない多目的スペースを備えている。デザイン性に優れたこの建物を土手町のランドマークとして活用できればよいが、現実には売却・解体の可能性も高いようだ。今のうちに、壮麗で華やかな外観を、外からじっくり眺めておきたい。

 また、フードコートのラーメン「中みそ」と、中華料理「山忠」(こちらの煮干し系中華そばも絶品!)には、別の場所でも早く営業を再開していただきたい。これは筆者のみならず、多くのファンの方々の願いではないか。