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消えゆくカフェは関西の“カルチャー”だった。音楽・演劇・ファッションのごった煮・阪急村で愛された「カンテグランデ中津本店」閉店を惜しむ
2026年8月21日 12:34
大阪のなかでも、梅田に近過ぎるがゆえに影が薄い「中津」。その片隅で、1972年から半世紀以上も営業を続けてきたエスニックカフェ「カンテグランデ中津本店」が、8月23日をもって完全閉店する。
梅田の喧騒が嘘のような閑静な下町で、チャイやラッシー、スパイスカレーを、ほかのカフェではなじみが薄かったころから提供してきた。そんなカンテグランデは、ミュージシャン・クリエイター志望の人々が客にもスタッフにも多く、「ガッツだぜ!!」「バンザイ ~好きでよかった~」などのヒット曲で知られるバンド「ウルフルズ」も、この店でのバイト経験がきっかけで結成に至ったという。
いま中津本店は、閉店を惜しむ人々の長蛇の行列で、1時間、2時間待ちまで生じているようだ。年齢層を見ると40代、50代以上の方も多く、ウルフルズのファンだけでなく多くの人々が、“お別れ来店”の列に並んでいる。
一見して、普通のエスニックカフェに見えるカンテグランデ中津本店は、なぜ多くの人々に惜しまれるのか? まずは、カンテグランデや「阪急文化村」のサブカルチャーが華やかなりし80年代・90年台を思い起こしつつ、ウルフルズ「大阪ストラット」の歌詞にも出てくる「カンテGでやっぱチャイとケーキ」を味わうべく、中津本店を訪れよう。
「チャイとケーキ」だけじゃない。カンテグランデ本店に潜入
「梅田行きのキップ買って 紀ノ国屋(阪急のホーム下にある梅田本店と思われる)で待っちきって」という歌詞どおりに、阪急三番街や茶屋町を散策しながらカンテグランデ中津本店に歩いて向かうと、おおよそ15分ほどかかる。
8階建てのマンション「アルティスタ中津」の半地下にある中津本店の店内は、いい意味で統一感がない。天井から垂れ下がったインド調の服や布地が、これ以上ないほどに独自の世界観を醸し出している。
Webサイトでも「本格スパイスカレー」として推されているカレーは、スパイスが主張し過ぎず、ピリッと来るのに、なぜかホッとする。溶け合ったまろやかさが先に来る一皿だ。
こういった系統のカレーは、のちに関西の各店で変化を遂げ、2000年代後半から「スパイスカレー」として全国的なブームを起こす。各店とも競争の挙げ句にインパクトある味を追求するようになったが、長らく通い詰めている常連客によると、「カンテグランデのカレーはかなり以前からあり、味は大きく変わっていない」という。
なかにはカンテグランデのバイト・従業員がほかの新店に関わることもあったというが、カンテグランデの味はさほど変わらず、ブームに乗ろうという動きも見られず。常連客として「ちょっとは欲を出さんのか!」と感じていたそうだ。
スパイスカレーは定義や元祖が定かでなく、「いまブームになっているのは“第三世代”」などという声もある。そのなかで、変わらないスパイス配合でカレーを提供し続けたカンテグランデは、「スパイスカレー・第一世代の名店」として語り継がれてもよいだろう。
食後はいよいよ、念願のチャイとケーキだが、ここで注意が必要だ。この店で不動の人気を誇る「ゴータマショコラ」は、キリっとビターなカカオの風味に、濃度強めのラム酒とラムレーズンがしっかり利いており、“オトナ風味のケーキ”を体験したことがない方は驚くかもしれない。
ケーキに合わせるチャイは若干のほろ苦さがあるが、合わせて食べると不思議なことに、スッキリとした甘みを感じる。冬だと、チャイのバリエーション「スパイスチャイ」のジンジャーとゴータマショコラをチョイスすれば、ぽかぽかと体が温まること請け合いだ。
カンテグランデがチャイの提供をはじめた昭和40年代には、「伽奈泥庵(カナディアン)」(1966年に北区南森町で創業、現在は閉店)以外のカフェはコーヒー・紅茶ばかりだったという。この環境のなかで、カンテグランデの創業者・井上温(ひさし)さんはインドへの渡航を経て、当時はめずらしかったチャイを「炊き込みミルク茶」としていち早く提供。のちにスパイスカレーやインド直輸入の服まで販売した。
一方で東京では、のちに「エスニックカフェ」と称される業態や、チャイの提供も大阪より遅かった。カンテグランテは単なる飲食店ではなく、インドのカフェ・食・ファッションなどのカルチャーを持ち込んだ先駆者でもあるのだ。
ただ、カンテグランデ中津本店のまわりは、決して市街地とは言えない。それでもなぜ、半世紀以上もこの地で愛されてきたのか? まず、1kmほど南側にある、阪急電鉄 大阪梅田駅にある市街地(通称「阪急村」)との関係性を語らねばなるまい。
1980年代~90年代にかけて、カンテグランテと阪急村は、互いにカルチャーが行き交う「サブカルのシルクロード」のような関係にあったのだ。筆者の記憶と、ライブや演劇公演の参戦記録から、当時の様子をたどっていく。
カルチャーのごった煮空間「阪急村」を彩った音楽・演劇・ファッション
カンテグランデ中津本店から南側に歩くと、大阪発の準キー局である毎日放送の本社や、一帯の再開発で開業した「NU茶屋町」(ヌーちゃやまち)を中心とした茶屋町エリア、阪急百貨店の別館「HEP FIVE」など「角田町エリア」がある。このエリアが、通称・阪急村だ。
このエリアは、西梅田や難波・天王寺などとは明確に差別化された「サブカルチャーの街」でもあり、音楽以外にも演劇・アート・ファッションなどに通じる人々が、吸い寄せられるように集まっていた。阪急村からカンテグランデに向かうルートは、ありとあらゆるカルチャーがギュっと集積されたエリアであり、遊んだあと「最後にチャイとケーキ」といった行動様式は、当時の若者にとっての憧れでもあったのだ。
まず、ミュージックシーンで80年代にこのエリアを彩ったのは、「梅田アムホール」「梅田バナナホール」などのライブハウスであった。どちらも阪急村からは少し外れるが、「JITTERIN'JINN」「シャ乱Q」「すかんち」など関西発のインディーズバンドが次々と舞台に立ち、そのままメジャーデビューを果たしていった。
当時はバンド勝ち抜き番組「三宅裕司のいかすバンド天国」の影響もあってプロ以外への注目度も高く、デビュー前でもかなりの動員力を持つインディーズバンドが存在した。阪急村の一帯はミュージシャン志望者の母数も多く、かつてのウルフルズのメンバーのように、何者でもない若者が一帯で群れていたのだ。
各バンドは横のつながりも多く、なかには1989年結成の「モダンチョキチョキズ」のように「砂場」(濱田マリさんが在籍していたバンド)や、「自転車の友」「吉村うみぼうず」など有力バンドから人材を吸収していく場合も。さらに飛び入りの観客まで取り込んだ結果、最終的にバンドメンバーは200人を越える……。梅田以外のライブハウスでも言えたことだが、この地は人のライブに出演したり、観覧したりしただけでもデビューできてしまう「敷居の低い登竜門」であったのだ。
もう1つ、80年代・90年代の阪急村を象徴するのは「学生演劇ブーム」だ。阪急百貨店系列のファッションビル「阪急ファイブ」(現「HEP FIVE」)8階の「オレンジホール」では、若手メインの演劇公演が行なわれており、トップクラスの人気があった「劇団そとばこまち」「惑星ピスタチオ」などの関係者以外にも、俳優・パフォーマーの卵が多くたむろしていた。
この界隈からは生瀬勝久さん(当時の芸名は「槍魔栗三助」)、佐々木蔵之介さん、山西惇さんなど、いまや一線で活躍する俳優ばかり。一帯にはこういった人々を追っかけるファンも多く、中性的で熱烈な人気があった古田新太さんに「この辺を歩いていれば出会える」という願望を持った女子高生(筆者と同じクラスの数名)が、夏休み中ずっと梅田に通っているのを見かけたこともある。
ほかに、アメカジやブーツを販売していた古着屋、地下深くの妖しいディスコ(ラジオシティ)、コテコテの吉本芸人が出入りする吉本興業の劇場(うめだ花月)など。筆者が歩いていたころの阪急村は、音楽・演劇・ファッションなどのカルチャーが、ごった煮になった街でもあり、各分野のクリエイターとファンが集う一大拠点でもあった。
そんな阪急村の人々が、周辺で遊んだあとに足を運ぶのが、ほかならぬカンテグランデだったのだ。
カンテグランデが「ノーパン喫茶近くの魔窟」だった時代
かつてのカンテグランデは本店・阪急ファイブ・泉の広場(東梅田)などに店舗があり、ものめずらしかったチャイを飲むこと自体が、異国のカルチャー体験と捉えられていた。
ただし、当時のカンテグランデは各店ともかなり妖しく、重々しい木の扉を開けないと店内が見えないせいか「魔窟」とも呼ばれていた。店内には現地収録したというインドの生活音や会話が流れたり、その次にエリック・サティが流れたり。全体的に薄暗くオリエンタルな店内のすべてが、刺激的であったのを思い出す。
このころにカンテグランデから刺激を受けたバイト経験者や客は、筆者が耳にしただけでカフェ経営者・役者・落語家・フォトグラファー・編集者・ライターなど、バイト経験者のウルフルズや、デビュー前から常連客であった槇原敬之さんなど、多くのクリエイターを生み出している。
なかでも「泉の広場店」は周囲にノーパン喫茶(あえて解説しない)が多く、玄関先に「当店は普通の喫茶店です」と張り紙がされていた。ヒッピーのようなお兄さんがチャイやチャパティを運んでくれるカンテグランデも、明らかに「普通の喫茶店」であるはずがない。
筆者のカンテグランデ初体験もこの「泉の広場店」で、古田新太とダウンタウンが共演する劇団☆新感線の公演をオレンジルームで見たあと、引率で来てもらった叔父に「おまえチャイって知っとるけ? 知らんのけ? チャイ飲んだら子供卒業、行くで!」と強引に引っ張られて入店したように記憶している。
中学3年生だった当時は、近隣にあったノーパン喫茶に恐れをなして「店に着く前に補導される! 連れていかんといて!!」と抵抗しつつも、見かけからは想像もつかない気さくな店員さんにチャイを淹れてもらってから数十年。近くに新築マンションを購入したこともあり、中津本店で事あるごとにチャイを飲み続けている。
コロナと「スタバ進出」で収縮したカンテ、このあとどうする?
カンテグランデはその後、大阪市内に10店以上を出店。アメリカ村の「モンスーン・ティールーム」のような暖簾分け店舗や、カンテと同様にチャイの老舗であった谷町の「伽奈泥庵」などの存在もあり、大阪での「お洒落な街で遊んだら、そのあとはチャイとケーキ」という、東京のエスニックカフェとは違う謎の文化が浸透していった。
そんなカンテグランテの縮小のきっかけとなったのが、「スターバックス コーヒー」の存在だ。カフェとしての競争に勝てずにじわじわと追い詰められ、中津本店と系列の「カンテグランテベーカリー」以外はコロナ禍を越えることができなかった。
現在、カンテグランデは郊外の商業施設「西宮ガーデンズ」「つかしん」(兵庫県尼崎市)などへの出店で、その活路を開こうとしている。多くの人々の心に残るカンテグランデの歴史は、中津本店の閉店で阪急村から遠ざかろうとも、まだまだ続くようだ。































