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ANA、NH便名の由来にもなった“日ペリ”創業時のヘリコプターを分解・移設。マイスター整備士が語るヘリ整備の経験談
2020年7月1日 07:48
- 2020年6月29日~30日 移設作業実施
ANA(全日本空輸)は6月29日~30日、同社の前身企業の一つである「日本ヘリコプター輸送株式会社」創業時に導入したヘリコプターの移設作業を実施した。
日本ヘリコプター輸送はその名のとおり、ヘリコプターによる商業飛行を事業とする会社で、「日ペリ」の愛称でも知られる。ANAの便名などに用いられるIATA(国際航空運送協会)2レターコード「NH」は、Nippon Helicopterの頭文字から取っており、現在までその名が受け継がれている。
今回移設されたヘリコプターは、日本ヘリコプター輸送の1952年創業時に導入した2機の「ベル47D-1」型機、登録記号「JA7007」「JA7008」のうちの「JA7008」の機体。1952年12月25日に日本に到着し、翌2月の宣伝飛行を皮切りに商業飛行を開始し、農薬散布、報道、救命活動、送電塔架設などさまざまに用途に供された。
その後、1970年に退役し、1973年に東京・万世橋/秋葉原エリアにあった交通博物館に寄贈。2006年に交通博物館が閉館したのを契機とし、2008年12月に古巣となるANAへ帰還。ANAの研究教育センター「ANATEC(ANA Training & Education Center)」に併設されている安全研修センター「ASEC(ANA Safety Education Center)」へ受け渡された。
そして今回。CA(客室乗務員)や整備士、地上旅客スタッフ、地上支援業務(グランドハンドリング)スタッフらの訓練設備を集約すべく2019年に開設した「ABB(ANA Blue Base)」へ移設。創業時の精神を伝えようと、さまざまな職種のスタッフが訓練のために訪れる施設へ展示することになった。
ちなみに、新型コロナウイルス感染症の影響で中断しているものの、ASECは一般の見学も受け入れており、その際にエントランスに展示されていた同機を見ることができた。今回のABBも開始時期は未定ながら一般見学の受け入れを予定しているが、同機の展示場所は予定されている見学コースからはやや外れているとのことで、一般の人の目に触れる機会が減ってしまうことにはなる。
今回の移設作業は、まずANATECにおいて、同施設の玄関を抜けるための分解作業を実施。分解した状態で新たな展示場所となるABBへ陸送し、そちらで再び組み立てるもの。6月29日にANATECでの分解作業、6月30日に陸送ならびにABBでの組み立て作業が行なわれた。
移設作業は、ANAの社内専門性認定制度「マイスター制度」の最高位である「グループマイスター」に認定されている伊藤剛氏のほか、若手を中心に各部署から集まった9名、計10名の整備士によって行なわれた。
分解は、その目的である「玄関を通す」ためのサイズに収める最低限のものに留めている。6月29日に行なわれた分解作業は、まず展示されていた場所から、作業しやすい広い場所へと移動。長いローターブレードが周囲にぶつからないよう気を遣いながら移動し、さっそくメインローターブレードの取り外しへ。
ブレードを数名で支えながら、2か所のナットを外し、ブレードを揺らしたり、ボルトを逆側から叩いたりしながら、30分ほどで2名のブレードを取り外し完了。
その後、ヘリコプターの着陸装置、いわゆる「スキッド」の分解。ここでは工夫がこらされ、右側と左側で外す位置を変えることで、機体に横向きに取り付けられているバーを、スライドさせるように横から抜けるよう作業が行なわれた。このバーの下にケーブルなどが通っており、それらを外す手間を省くため、スライドして取り外すようにしたものだ。
スキッドが取り外されたあとは、輸送用のバーと土台が順に取り付けられ、全高を低くしつつ、輸送できるような状態へ組み上げられた。
そして、最後にメインローターが取り付けられていた部分、すなわちエンジンからトランスミッションを介して上方に伸びる「マスト」を取り外す作業が行なわれた。こちらは多くの整備の手によって小さなボルトが次々に外され、最後は運送会社が用意した門型リフトで吊り上げ、トランスミッションに使われている遊星歯車もその姿を見せた。
ちなみに、こうした分解作業と並行して、テールローターの固定/養生や、取り外したパーツのパッキングなども運送会社のスタッフが順次進めており、休憩を挟みつつ5時間ほど。実作業は3時間強ほどで初日の分解作業が終了した。
クレーンで吊り上げてANA Blue Baseの2階へ直接搬入
そして翌30日、ANATEC(ANA Training & Education Center)からABB(ANA Blue Base)への輸送と、ABBでの組み立て作業が行なわれた。
ABBでは2階の通路に設置することから、クレーンで吊り上げて2階へ直接機体を搬入。荷台に積まれた状態から半回転させ、頭から2階の扉へと機体は運び込まれた。
その搬入と同時に、台車も取り付けられ、館内を移動するための準備も整えられている。
その後、長い通路を、養生のためのパネルを後ろから前へと移動しながら前進。搬入後は前向きに移動していたが、設置向きは逆向きとなるため、スペースのある場所でスイッチバック。後ろ向きに転回して、設置位置へと機体を進めた。
組み立ては分解時の逆順ではなく、まずは輸送のための土台を外して、元のスキッドを取り付ける作業からスタート。奥まった位置にあるボルトを締めるため、スパナ2本をテープで固定して利用するなど工夫しながら元通りに取り付け。
分解時とは異なり、仮留めした状態で吊り上げていた機体を降ろし、安定した状態にしたのちに規定トルクで本締めする流れで作業が行なわれた。
そして、上部の取り付け。ギアにはめる際にやや苦労する様子を見せつつ、まずはマストを差し込み固定。続いて、分解時同様にスタッフ総出でメインローターブレードを支え、2枚のブレードを固定。組み立て作業は一段落した。
組み立て作業自体はこれで終了したが、設置作業はこのあとも続きが。通路への設置のため、できるだけ脇に寄せたいところ、メインローターブレードと直角に付いているスタビライザーが建物に干渉し、機体そのものが通路にかなりはみ出した状態になっていた。
ただ、スタビライザーの干渉は台車を外して全高が低くなった状態であれば回避できることから、運送会社のスタッフが摩擦係数の低い複数枚の紙を利用して、台車を外した状態で横にスライドさせるというテクニックを披露。見事に台車のない状態で壁際まで人力で移動させ、最後にスキッドを乗せる展示用の台を挟んで作業終了。2日間にわたる移設作業がすべて完了した。
指揮を執ったのはヘリコプター整備経験のあるグループマイスター整備士。「飛ぶ感覚はヘリ整備で身についた」
先述したとおり、今回の分解・組み立て作業はANA社内の専門性認定制度「マイスター制度」の最高位である「グループマイスター」に認定されている伊藤剛氏の指揮のもと、若手を中心に整備関連の各部門から集まった9名、計10名の整備士によって行なわれた。
伊藤氏がマイスター認定されている「グループマイスター」は、ANAのドック整備部門約1000名のなかでも4名しかいない。さらに伊藤氏は、入社時にヘリコプター整備に従事したうえ、交通博物館からANATECへの移設作業にも携わった経験もあって、今回の移設を担当することになった。
伊藤氏は1974年に入社後、ヘリコプター(回転翼機)整備に配属され、その後、固定翼機(固定された翼を持ついわば普通の飛行機)の整備の道へ。入社時はトライスター(ロッキード L-1011型機)導入に合わせて整備士が多数入社したなか、ヘリコプター整備士に配属されたことを振り返り、「飛行機が好きで、飛行機のそばにいたいと入社を希望したが、入ってみたらヘリコプターと言われた。ヘリコプター? 全日空にヘリコプターがあるの?という状態だったが、入ってみるといろいろなことを経験できた」と語る。
その一番の経験は「飛ぶ感覚」を身につけられたことだという。「ヘリコプターは乗務員とともに、整備士が一緒に飛んでいくことが多い。航空機は空を飛ぶ感覚が分からないと本筋が分からないときがあり、飛ぶためになにが必要か、そのときによく分かった。また、ヘリコプターの小型機は1人ですべてを見る。今の大型の固定翼機は専門分野に分かれて業務せざるを得ないが、電気、電子、構造関係、一般的な整備も含めて、トータルでモノを考えることが身についた」と話す。
例えば、現在は運航管理を担うディスパッチャーが行なうルート設定、重量計算、重量中心計算などもすべて整備士が行なっていたそうで、「3000フィートでホバリング(空中静止)する空撮ミッションがあり、乗務員に重量などを提示したら、この重量でホバリングできないと指摘された。そのあたりは飛ぶ人間しか分からない。また、計器板の前に台がある。農薬散布の際に、農薬をできるだけたくさん搭載したいので無線機を下ろすが、そうするとバランスが崩れてしまう。許容重心範囲が前1.5インチ、後ろ1インチほどと非常に狭くて、前方から重量のある無線機を下ろすとバランスが崩れるので、普段は後ろに乗せているバッテリを前に持ってきて、その台に乗せる」と経験談は尽きない。固定翼機の整備士も、一等航空整備士の試験のためには重量中心計算なども知識として身につける必要があるそうだが、実感として身につけられたのは、ヘリコプター整備士の経験があってこそだという。
そんなヘリコプター整備を3年間務めたのち、固定翼機の整備士となった。「整備作業自体はそれほど変わらない」と話す一方で、ヘリコプター独特の慣習があり、その例としてコッパーピンの留め方について紹介。ボルトが緩むのを防ぐための回し留めに利用するコッパーピンは、大型の固定翼機での規定ではピンの端をボルトの上に置くのだが、ヘリコプターではピンの端をさらに別の溝にはめるのだそうだ。「狭いところに手を入れて作業をすることもあるので、ケガをしないようにピンの端が飛び出た状態にならないようにしていた。固定翼機の整備になったときにこのやり方をしたら『伊藤君は基本を知らないね』と怒られた」という笑い話も。
さらに、伊藤氏は当時整備していた「ベル47G3B-KH-4」型機の整備作業マニュアルを個人的に保管。「今の飛行機は(両手をいっぱいに広げて)こんなにいっぱいだが、このヘリコプターはバインダー1冊。今は丁寧に書いてあるが、このころは要点しか書いてない」と、各スタッフの工夫と経験が求められる時代だったとも語る。「今となっては知ったからといって使うこともないが、若手を指導するときに、知識だけでなく、実際にこういうことなのでと経験を伝えることができる。そういう時代があったことも知っていただきたいと思う」と、指導する立場となった現在に至るまで、ヘリコプター整備の経験を活かしている。
ちなみに、交通博物館からANATECへの移設の際のエピソードを尋ねたところ、「どこを外せばANATECの入口を通れるか誰も分からなかった。埼玉の航空博物館の格納庫の奥にあった古い同型機を調査させてもらった」と事前調査。実際の作業は手探りの部分もあったが、目星を付けていたので大きな苦労はなかったという。
おまけに、屋内展示で、かつ天井から吊るされて手に触れられない展示だったことから、「事前検証したヘリコプターが古かったこともあって、ボルトが錆びて回らないのはないなどの事態を想定して、いろいろなツールや潤滑剤を準備して持っていったが、状態がよくてスムーズで肩透かしだった(笑)」と話す。さらに「ホコリを払ったぐらいで、とれもきれいだった。普通は経年劣化もあるものだが、こんなに状態のよいベル47D-1はほかにないんじゃないかと思う。それが日ペリ最初の機体ということで思い入れもある」と語った。
そして、今回の作業。分解作業前から「今回も屋内展示だったのであまり心配はしていない」と話していたが、全作業終了後に感想を尋ねると「思ったよりも順調に進んだな、と。分解に4時間ぐらいかかると思ったが3時間ぐらい。組み立てはいろいろな調整があるので、もっと時間がかかると思ったが、さすがに整備作業を毎日やってる整備士だけあって勘がよく、ビックリするぐらい順調。みんな素晴らしいパフォーマンスだった」と、順調であったことを示しつつ、作業にあたった整備士をねぎらった。
また、今回参加した整備士9名から松本俊太氏(2015年入社)と福島一志氏(2018年入社)の2名もインタビューに応えた。松本氏は専門学校時代にヘリコプター整備士の資格を取得して5~6年ぶり、福島氏は人生初のヘリコプターの整備作業だという。
現在の固定翼機の整備との違いについて松本氏は「大型機の作業だと、1~2名でやる作業が多いが、ヘリコプターは例えばブレードなら外す人と、サポートする人が4~5名と、チームワークが非常に大事だと感じた。普段行なっている作業と基本的には同じだが、チームワークがより重要だと感じた」と話す。
作業完了後には「スムーズに進んだと思う。伊藤マイスターの的確な指示もあり、さまざまな部署の整備士が集まって、培ってきた経験や知識を活かし、それにプラス声かけをしっかりして、チームワークで作業できた結果だと思う」と感想を語った。
福島氏は、移設されたヘリコプターについて、「昔の機体であっても、今の機体と同じぐらいの安全性が担保されていたのだと、部品やパーツを見て感じた」と話し、作業終了後は「ANAがこの機体から始まったということで光栄に感じながら、作業自体は楽しく、初めて会う(整備士の)方もいたが、そのなかでうまく連携をとって、安全に順調に作業できて、よい経験になった」と語った。
また前述とも重なる部分があるが、両名とも苦労した部分として「ブレード」を挙げ、普段は取り扱わないほどの大きさのものを、初めて会うメンバーで連携して作業を進めることに難しさと重要さを感じたという。
今回の作業を通じ、本来の職場で同僚らに伝えたいことを尋ねると、松本氏は「会社設立当初からのヘリコプターということで、諸先輩方の思いがこもった飛行機を分解・復元することに背筋が伸びる思いだった。現場に戻っても、諸先輩方の思いを少しでも伝えられたらと思っている」と述べ、福島氏は「まずは実際にヘリコプターを触ったという経験を仲間に伝えたい。現在の機体と取り付け方などはさほど変わらなくて、今も昔も安全性は変わらないよ、と。これに加えて、ANAがスタートしたときの機体に携われたのは社員としてうれしく思ったので、この先輩方が残してくださった伝統や安全への思いを広げて、ゆくゆくは後輩たちにも伝えたい」と、それぞれの思いを語った。