ニュース

震災から約4年、仙石線が全線開通。東松島市で「運転再開記念フォーラム」

クリーンディーゼル普及促進協議会は、合わせて試乗会を実施

2015年6月6日 開催

約4年ぶりに全線開通した仙石線。仙台と石巻を結ぶ路線になる。全線直流電化のため首都圏でも使われている205系電車を使用する

 2011年3月11日の午後に発生した東日本大震災によって、東北各地は大きな被害を受けた。JR仙台駅とJR石巻駅を結ぶ仙石線も列車が津波で流されるなど被害は甚大で、高城町駅(宮城県松島町)~陸前小野駅(宮城県東松島市)間が、不通区間として残り、バスによる代替運行が行なわれていた。

 約4年後の2015年5月30日に、東名駅と野蒜駅を高台移転する形で仙石線は全通。塩釜駅~高城町駅には東北本線の渡り線も作られ、仙石線に加え、その渡り線を使って運行する仙石東北ラインも同日開通した。

仙石東北ラインは、東北本線が交流、仙石線が直流、渡り線には非電化区間もあるということから、ハイブリッド気動車HB-E210系を使用する
ハイブリッド気動車HB-E210系の室内
トイレも装備する
貫通扉をもつ
ハイブリッド車ならではの装備が、このエネルギーモニター
室内には仙石東北ラインの中吊りがあった
石巻駅に並ぶ、仙石線(左)と仙石東北ライン(右)の列車
発車時刻表示
石巻駅には、小牛田駅~石巻駅~女川駅を結ぶ石巻線も乗り入れる
高台移転した野蒜駅
同じく高台移転した東名駅
両駅の移転配置図とアクセス道路図
旧野蒜駅。街道沿いにあることからコンビニエンスが入っていた
旧野蒜駅のホーム
旧野蒜駅舎に残る津波の高さ
旧野蒜駅舎では、震災の記録写真が掲示されている
インターネットでも公開されている

 東松島市では開通1週間後となる6月6日に、「仙石線全線開通 運転再開記念フォーラム」をコミュニティセンターで開催。フォーラムは東松島市の住民を対象に、講演やパネルディスカッションの第1部と、「みやぎびっきの会」によるコンサートの第2部の2部構成で行なわれた。本記事では主に第1部の内容をお届けする。

復興への大切なライフライン、仙石線

 記念フォーラムは「仙石線の今昔 ~震災を乗り越えて~」というDVDの上映から始まった。このDVDでは、仙石線の歴史と震災による中断、そして再開の風景が流された。

会場で流されたDVD

 DVD上映後、東松島市長 阿部秀保氏が主催者を代表して挨拶。阿部市長は、仙石線の路線移設に伴って土地を提供した地権者、住民、そして移設部分の工事に携わったUR都市再生機構にお礼を述べ、仙石線を移設運行開始したJR東日本に深い感謝の意を述べた。

 この開通によって、これまでバスで代替え輸送となっていた不便が解消し、通勤、通学、通院などが便利になるという。とくに、バスでは不便なことから、実質的に家族がクルマで送るなどしていたので、「家族の負担が減るのが大きい」と語る。松島市と東松島市が再び鉄道で結ばれることで、交流人口の増加にも期待をしていた。

 市長の挨拶に続いては、東北福祉大学教授 星山幸男氏が「仙石線再開に期待する~地域活性化の可能性~」と題した基調講演を行なった。

 基調講演において星山教授は仙石線の歴史を詳細に解説。仙石線は宮城電気鉄道によって1928年(昭和3年)に仙台~石巻までが全通した路線で、開業当初から観光の要素が大きかったという。当時の案内を見ても、松島のところには“東北の宝塚”と、野蒜のところには“東北須磨”と書いてあり、観光を全面に押し出している路線とのこと。

東松島市コミュニティセンターで開催された「運転再開記念フォーラム」
東松島市長 阿部秀保氏
東北福祉大学教授 星山幸男氏

 その後、1944年(昭和19年)に国鉄に買収され、国有化。仙石線近辺には、宮城の練兵場、塩釜の港、矢本の飛行場など軍事施設も多く、また、当時はすでに観光という状況ではなくなっていたため、「宮城電気鉄道の経営も苦しかったのだろう」と語る。そういう歴史をもって、戦後を迎え、再び観光の要素が拡大。沿線住民も増え、生活の足としての側面も強くなっていった。

 そして、東日本大震災による切断、再開となったわけだが、今後は自分たちが支えていく意識が大切だという。「マイレールという意識をもってほしい」と呼びかけ、「鉄道を媒介としていろいろなことができるだろう」と語った。

 基調講演後は、阿部市長、星山教授のほか、東日本旅客鉄道 仙台支社 企画部長 相澤義博氏、地域住民代表 門馬美樹子氏が加わってのパネルディスカッション。司会進行は地元のラジオ・テレビ番組でも知られる本間秋彦氏で、「JR仙石線とこれからの街づくり」に関して話し合われた。

パネルディスカッション
東日本旅客鉄道 仙台支社 企画部長 相澤義博氏
地域住民代表 門馬美樹子氏
本間秋彦氏
仙石線の列車本数など
1日の乗降客数。2011年以降落ち込んでいるが、どの程度回復できるかがポイント
仙石線被災状況
仙石東北ライン

 口火を切ったのは阿部市長で、東松島市はかつて年間110万人の観光客が来ていたが、震災後の直近では25万人になっているという。そのため、東松島市では観光ビジョンを策定。2019年(平成31年)には70万人、2024年(平成36年)には110万人にもっていきたいという。そのための核となるのが、東松島市で震災と防災を学べるようにすること。東日本大震災の爪痕が各所に残り、そこからの対策などを見てもらうことで、そのほかの地域で役立ててもらうという構想だ。

 JR東日本 相澤氏は、震災からの復興にJRとしてお役に立てることがないかということで、新たに東北本線と仙石線を結ぶ仙石東北ラインを作ったといい、「仙台と石巻を52分で結び、10分短縮する」と語る。かつては、速い快速なら1時間を切っていた仙台~石巻間だが、沿線住民が増えることで停車駅が増え、速達性が下がっていた。仙石線に加え、仙石東北ラインができたことで、東松島市では1時間あたりの列車の本数も1本から2本へと倍増した。つまり、画期的な輸送量の増強が図られたことになる。

 さらにJR東日本は仙石線に対する投資として、陸前赤井(東松島市)~蛇田(石巻市)間に石巻あゆみ野駅を新たに設置。こちらは2016年3月の開設を目指している。

 堅い話ばかりではなく、本間氏からはクイズも出題。仙石線には昭和初期にCA(客室乗務員)が乗っていたこと、電化が早かったなど、日本の中でも突出した路線であったことなどが紹介されていった。

 パネルディスカッションの最後には、市長が“東松島一心”という取り組みを示し、「(震災で)約1100人の人たちが亡くなった。この人たちのためにもがんばらねばならない」と語り、「安心して笑顔で暮らせる町、名前だけでなく機能することが大切」とした上で、“東松島一心”は、“心を一つにして新しく進むことである”と、第1部を結んだ。

仙石線をスペシャルカラーリングで走るマンガ列車「マンガッタンライナー」。この名前は、マンガと、石巻市と同様に中州をもつマンハッタンに由来することなども語られた
本間氏の提示したマメ知識。仙石線は1925年から電化されていた
仙石線には地下ホームがあり、一部区間は地下を走っていた
地下ホームの写真
仙石線の列車にはCAが同乗していた
市長が掲示した“東松島一心”

 2部は、お楽しみイベントとして、さとう宗幸氏、小柴大造氏、山寺宏一氏、高橋佳生氏、庄司眞理子さんによるコンサートが行なわれた。また、クリーンディーゼル普及促進協議会は、フォーラムに合わせて、コミュニティセンター周辺での試乗会を実施。これは、軽油を使うディーゼルエンジンが、燃料の安全性や航続距離の長さなど災害時にも有効に働くということを知ってもらうほか、クリーンディーゼル普及促進協議会の一員であるボッシュが東松島市で復興支援事業を行なっていたため。仙石線開通のお祝いで試乗会を行なった側面もあるとのことだ。

「みやぎびっきの会」(左から、高橋佳生氏、小柴大造氏、さとう宗幸氏、山寺宏一氏、庄司眞理子さん)によるコンサートが行なわれた
クリーンディーゼル普及促進協議会による試乗会

 記者自身が東松島市を訪れるのは、2013年1月以来。その際は、東北自動車道の本復旧工事完了に伴う取材だったため、東京からクルマで訪れた。今回はすでに仙石線が全通していたため、東京からは新幹線で訪れた。早朝の新幹線に乗れば、9時半頃には石巻駅まで行くことができ(そこからレンタカー)、改めて鉄道の便利さを実感することができた。

 今回、訪れて嬉しかったのは、旧野蒜駅に手が入り、コンビニエンスストアになっていたことと、2013年1月の取材時には矢本運動公園内の仮設店舗で営業している「えんまん亭」が、野蒜地区での営業を開始していたこと。当時、「生きているうちに(野蒜地区に)帰れるかどうか分からない」と語ってくれた店主の奥さんだったが、無事地元に戻って営業再開できたようだ。とはいえ、店舗周辺は住民が高台移転のためほとんど住んでいない状態に見え、気になったのも事実。取材時間の関係で訪ねることはできなかったが、改めて訪れてみようと思っている。

 前回の取材時、そして今回の取材時にも聞かれたのは、東松島市など被災地区に訪れてほしいということ。観光や防災学習の言葉では表わせない部分を、実際に訪ねることで見ていただきたい。仙石線が全通したことで、東松島市や石巻市に行きやすくなった。宮城には七夕をはじめとして多くの夏祭りがあり、夏休みの旅行先として検討してみていただきたい。

編集部:谷川 潔