トピック

ポルシェ×東大先端研、礼文・利尻の離島の暮らしと歴史を知る旅。社会の変化を意識することが未来を開く

LEARN with Porsche 2023レポ後編

「LEARN with Porsche 2023」の参加メンバーと利尻島の小学生たち。利尻町総合体育館 夢交流館にて

 ポルシェジャパンと東大先端研「個別最適な学び」寄付研究部門が共同で実施した、若者向けのプログラム「LEARN with Porsche 2023」。本稿では3日目以降の内容をレポートする。

⇒前編はここから

礼文島で漁師の仕事を体験せよ

 初日は北海道・旭川に飛行機で入り、翌日には普通列車で6時間かけて稚内に向かい、船で礼文島にたどり着いた。

 礼文島の朝からの行動では3チームに分かれ、ウニや昆布漁を中心にした漁師の仕事を体験することになっている。記者は岡本さんチームに1日同行することにした。岡本さんは、礼文島の北にある船泊(ふなどまり)地区で漁師を営んでいる。

 何をするかは天候次第と聞いていたが、作業場に着くと、収穫した昆布を選別する作業を教わることに。昆布の様子を見ながら、状態のわるい周囲を切り落としたり、分割したりして梱包できる状態にもっていく。言うと簡単そうだが、選別の判断は素人には難しい。

礼文島の海岸沿いを走る
小さな魚港が見えてくる。この近くに岡本さんは住んでいる
まずは岡本さんの昆布選定作業場に集合して、あいさつする
これが出荷直前の昆布の束。こんな状態は初めて見る
漁師の岡本一男さん。生徒たちの様子を見ながら、厳しさ一辺倒ではなく熱心に優しく教えてくれた

 なるべくきれいな部分を多く残すようにはさみで切り落とし、1~4等級、選外に分類する作業。キズは端だけでなく中心部分にあるケースも多い。どこで切るかを判断する目を養う必要がある。岡本さんは「センスが必要」と言う。

 1等級になる昆布はほとんどない。けっこうよくても2等級。「あまりよくばり過ぎないのがコツ。どのみち検査ではねられるし、自分の名前が入った商品として自信を持って売りたいから」と職人の自負のこもった言葉に、生徒たちは改めて感心していた。

 自分で売り物になる商品を生み出していく作業に、生徒たちは新鮮さを感じているようだった。漁師の仕事が実際どの程度儲かるのかということにも、岡本さんはざっくばらんに答えてくれる。自分のセンス次第では、一攫千金も夢ではない仕事だ。

昆布はこんな状態。「ほらここが白くなっている」などと逐一状態を見せながら
縁が焼けている場合、こうやって切り落として細くする
仕上がったら、等級を選別する。右が一番よい状態の1等
1等は100cm、2等は85cm、3等は50cmに揃える必要がある
端もきれいに切り揃えるが、太さも等級影響するので範囲内にする
汚れやキズの見きわめが難しい
ほかの人の判断方法も参考になる
最善の見きわめ方は人によって異なる「センスがいるんだよ」
ここの汚れをどう見るかで、切る場所が変わる
だいぶ慣れてきたので、4等級相当品を皆で仕上げることになった
難しいところは、岡本さんに聞けば指示をもらえる
意外と手慣れてきて、黙々と作業に集中している
かなりの数の選別をこなした
最後に梱包作業も見せてくれた。プレス機で圧縮する
自分の名前が入ったパッケージを縛って完成だ

漁師の基本、ロープワークは日常でも役立つ

 続いて、漁師の基本ともいえるロープワークを教えてもらうことになった。漁に使うロープを1mほどに短く切って、それを使って実際にやってみる。

 ロープ同士を結ぶ基本は「本結び」なのだが、生徒は全員が初めて知るようだ。本結びを使うと、結んだ両端を引けば引くほどしっかり堅くなって解けることはないが、一方で簡単な方法で解くことができる。正しくできていないと、ロープの動きで少しずつ緩んでしまうので、海の上では命取りにもなる。

 さらに「もやい結び」も教わる。これも定番でロープで輪を作るときの基本だ。シンプルだが、どんなに強く引いても輪の大きさは変わらず解けることもない。英語では「Bowline」というが、Bowは船首を意味しており、船を固定するときの結び方なのだ。

 どちらも漁師には必須だが、ロープワークは生活のなかでも、荷物を固定するときなど知っていると役立つことが多い。生徒たちは、慣れないロープワークに四苦八苦していたが、実際に何度もやってみることでできるようになっていた。

漁師の基本ともいえるロープワークを教えてもらう
基本の「本結び」。左はダメな例
各自短いロープを渡されて実際に結んでみる
意外と難しい。「これはダメかな」
教えてもらいながら何度も試してみる
次は「もやい結び」。このように動かない輪ができる
丁寧に結び方を教わるが……
まだよく分かっていない様子
うまく覚えた人から教わっていく
手前に輪を作れるようになるのが理想

漁船で北の海を体験してみる

 さて、ずっと室内は退屈だろうと「船に乗って漁を体験してみようか」と、港のなかで磯舟でウニ漁をすることになった。この時期捕れるのはキタムラサキウニ。地元ではノナと呼ばれているそうだ。ほかに時期によってエゾバフンウニも捕れる。

「箱めがね」や「ガラス箱」などと呼ばれる水中メガネを口にくわえて水底を見ながら、網(タモ)でウニをすくう。場所を細かく移動するのに、小さな船外機を操作したりオールを足で漕いだり。なかなか一朝一夕でできる技ではない。水中メガネでウニは確認できるのだが、すくうことができない。

ウニ漁に使う小型の船
この網(タモ)でウニをすくう
これが使う水中メガネ。口でかんで固定する
こんな姿勢ですくう。足でオールを操っている
港内とはいえ、スピードを出すと大迫力
岡本さんが船を操縦。少し速度を出して小舟を体感
岡本さんがお手本を見せる
熟練の技。あっという間にウニをこんなに捕った
水中はこのような感じで見えている。ここは少ないが漁場に行けばもっといる
ウニ捕りにチャレンジ
不発。なかなかヒットできない
船を岸に上げる
今回捕れたキタムラサキウニ

 さらに、修理していた船が仕上がったとのことで、ホッケやサケ漁に使う船も体験させてもらえることになった。岡本さんは「今日は波が穏やかだから」と軽く言うが、港の外に進んでいくとそれは北の海、なかなかの揺れ。捕まっていないと振り落とされそうだ。

 途中生徒たちは、船長の岡本さんがそばで運航指示を出しながら、同乗者として操縦を体験をさせてもらうこともできた。速度を落として、リモートの小さなコントローラを使う。初めての船の運転感覚に口々に「難しい」と言うが、運転が下手なせいで波を横から受けて、揺れで気持ちわるくなる生徒もいた。これはこれで貴重な体験だ。

岡本さん所有の漁船「第28竜颯丸」
岡本さんの操縦で港を出る。意外と揺れまくる
途中からリモートコントローラで操縦を体験。操縦法を教えてもらう
凪だというけど、波しぶきもスゴイ
操縦はなかなか難しいようだ
「あそこの岩を目指してみようか」と突き進む
岸は岩山が多い。あまり見られない絶景が続く
「先に行ってみたい」とのことで船首を堪能
戻りの運転を任された
なかなか上手に操縦しているぞ

 夜は、ほかの2か所で体験作業をしていた生徒も合流し、漁師の皆さんたちとBBQ大会となった。生徒たちは貴重な体験ができたことを感謝していた。

「ロープワークがすごく楽しかった。岡本さんが何も見ずに、スルスルと結んでしまうのが驚き。情熱を感じました」「誇りを持って楽しく仕事をされているのが分かった。自分も楽しみつつできて、誇れる仕事につきたい」「YouTubeを見るのとは違って、リアルでの体験は迫力が違って断然おもしろい」などと感想が挙がった。

 漁師さんたちは、漁や農作業など日々忙殺されるばかりだそうだが「仕事に共感を持ってくれる若者がいるということが実感できうれしい」と、とても喜んでいた。礼文島では今、島外からの移住者を積極的に受け入れているそうだ。将来何か迷うことがあったら、また礼文島の自然を満喫しに来るといいだろう。

船泊も日が暮れてきた
生徒たちは夕日に釣られて堤防に集まっていた
生徒たちもBBQの準備を手伝う
自分が掘って収穫したジャガイモを焼く
トド肉
ホッケのぬか漬
ウニは割って焼いていただく
海鮮系のBBQ。岡本さんが慣れた手つきで取り分ける
めずらしいホッケのチャンチャン焼。これが美味しいんです
生徒たちの感想を聞く。普段はない体験をして、いろいろと感じたことが多かったようだ
1日の終わりに、お世話になった方々と

利尻島のマクドナルドって何?

 4日目の朝、ホテルロビーに集合すると「これから船で利尻島を目指す」と知らされ、すぐ近くの港まで徒歩で向かう。船は2回目なので、だいぶ手慣れた様子。移動をどんなふうに楽しむか、ということも重要なことだ。

翌朝ホテルロビーに集合。「これから船で利尻島を目指す」
「もう少し、自主性を持って挑戦してほしい」とハッパをかける
港から船に乗って利尻島に向かう
さようなら。ありがとう礼文島
利尻島が見えてくる
船にもだいぶ慣れてきたかな
朝が早いので離れてゆっくりしたい人も

 利尻は礼文よりも大きな島で、中心に利尻岳(利尻富士とも)がある火山島。周囲約60kmほどの道路が1周巡っている。住人も多く街もだいぶ充実している。一見すると、島であることを忘れるほどの観光の街に見える。

 北にある鴛泊(おしどまり)港に到着すると、利尻島の地図が渡され、2チームに分かれてミッションが言い渡される。1つは「利尻島のマクドナルドについて」、もう1つは「漁師の暮らしについて」調べてほしいという。周辺の人に聞き込みをしながら進めていく。

 記者は「利尻島のマクドナルド」チームに着いていくことにした。さっそくフェリーターミナル周辺の観光客やインフォメーションセンターで聞いてみると、利尻島のマクドナルドはけっこう有名な歴史人のようだ。ペリー来航前に、ここ利尻島に漂着者のふりをして密入国したアメリカ人らしい。

「利尻島では2チームに分かれて島民に聞き込み調査をしてほしい」
こちら「利尻島のマクドナルド」調査チーム
配布された利尻島全体の地図。観光名所が分かる簡易的なもの
フェリーを待つ観光客に利尻島とマクドナルドについて聞き込み
インフォメーションセンターでバスの時間を調べる
利尻島郷土資料館に到着

 利尻島郷土資料館では、利尻島の歴史を研究している西谷さんが、ラナルド・マクドナルドについて解説してくれた。

 ラナルド・マクドナルドは、ペリー来航の5年ほど前の1848年7月2日、利尻島に上陸した。江戸幕府は第12代将軍家慶のころ。アメリカのオレゴン州の出身で、父はスコットランド人、母にネイティブアメリカン(チヌーク族)の血を引いている。髪の毛と瞳は黒く、当時の白人中心の社会では生きにくいと感じるようになり、各地を放浪して生きるようになっていたそうだ。

 そして、捕鯨船の船員になる。当時、捕鯨はハワイ マウイ島の捕鯨基地を拠点に日本の近海で行なわれていた。その際の燃料補給などの寄港地として、鎖国中の日本も注目されていたのだ。そこでいち早く日本に入って日本語を習得すれば、何かができるのではと考えたようだ。ではなぜ利尻島だったのかといえば、幕府の目が届きにくい蝦夷地を選んだという説が有力だ。当時の日本に関する書籍を読んで、蝦夷地やアイヌの情報を得ていたことが研究から分かったそうだ。

 24歳のとき、北海道からサハリンの西地域での捕鯨が終わったあとのトリマス号から、たった1人で小舟に乗り込み島への上陸を目指した。そこで船をわざと転覆させた漂流者を装い、アイヌ人に助け出された。しかし、利尻にいたのは1か月ほど、その後松前、長崎へと移送される。長崎では、開国を迫る諸国との交渉を務めることになる森山多吉郎に本物の英語を教えることもしているが、1849年4月にはアメリカに引き渡される。日本には1年もいられなかったのだ。送還されたあとは、船員として生きた。

 ひととおり説明を聞き、緻密に情報収集し、自分の生き方をシナリオどおりに実行した行動力に、生徒たちはかなり驚いていた。当時の白人社会で、ネイティブアメリカンとのハーフというマイノリティが生きにくいと感じ、世界を放浪する生き方を選ぶという事実にもなかなかの衝撃を受ける。その行動が、幕末の緊迫した外交に強く影響をおよぼしたのだ。

利尻島の歴史を研究している西谷さんが、ラナルド・マクドナルドについて解説してくれた
この写真がラナルド・マクドナルド。髪が黒いことが分かる
当時の利尻島の地図
マクドナルドについては吉村昭著「海の祭礼」が詳しい。幕末の外交が書かれている
館内には大きなトドの剥製がある
利尻島の自然や生活について展示されている

 その後、井上円了が立ち寄ったとされる浄土真宗大谷派の真立寺が近くにあるということで、雨のなか歩いて向かう。井上円了は、仏教哲学者で29歳で東洋大学の前身となる「哲学館」を創立した。文明開化に沸く日本人のよりどころとして、哲学によるものの見方が重要だと考えたためだ。そして、哲学教育を多くの人々に広げるためと寄付を募るために、自ら講演で巡回する全国巡講を行なっていて、全国にその足跡を残している。ここ利尻島にも1907年(明治40年)9月にやってきた。

 本堂入口の上に掲げられた「北州山」と書かれた山号額には、井上円了の名が記されている。そして、この真立寺が所有する井上円了が書いた貴重な掛け軸も見せていただくことができた。掛け軸には「萬歳聲中拝聖恩」と書かれている。これは大正天皇の天長節(現在の天皇誕生日)にうたわれた漢詩がもとになっていて、「万歳の声が響くなか、阿弥陀如来の聖なる恩に頭を下げる」という意味だと、西谷さんから教えてもらう。署名には「利尻寒中 円了道人書」と書かれている。

 1890年から全国巡講をはじめているが、1906年からは創立した学校から身を引き、全国巡講に心血を注いだ。61歳のときに大連で講演中で公演中に倒れ亡くなるまで、国内だけでも2831か所を回ったそうだ。この足跡の1つが、利尻島にも残っていたわけだ。明治偉人のバイタリティあふれる人生を聞き、生徒たちにも刺さることがあったに違いない。

近くにある、浄土真宗大谷派北州山真立寺を雨が降るなか訪ねる
「北州山」と書かれた山号額
井上円了が書いた掛け軸について、西谷さんから教えてもらう
掛け軸には「萬歳聲中拝聖恩」と書かれている
署名に「利尻寒中 円了道人書」

離島への定住移住とは

 真立寺をあとにし、バスで定住移住支援センター「ツギノバ」に向かう。ここで島民に関して話をうかがえることになっている。途中、西谷さんの知人で内装工事中の職人さんに声をかけ、少しお話することができた。利尻島で生まれ、昔はよく半年ほど東京などに出稼ぎに出ていたが、現在では冬でも島内で工事関連の仕事があるため行く必要はなくなったと教えてくれた。生徒たちは出稼ぎという単語は知っていても、リアルな経験談として聞くのは貴重だろう。

バスに乗って南下する。もう雨はやみそうだ
別行動をしていたチームと偶然同じバスに乗り合わせ。狭い島内だとこういうことも起きる
バス料金を現金で支払うのも、あまり慣れないこと
歩いて向かう途中島民に出稼ぎの歴史について話を聞けた
旧沓形中学校舎を再利用した施設に向かう
利尻島定住移住支援センター「ツギノバ」に到着

 旧沓形中学校舎をほぼそのまま使う利尻島定住移住支援センター「ツギノバ」は、利尻島の内外をつなぐ交流スペースとなることを目指し2020年に開設。空き家や仕事など移住支援の情報提供や相談窓口となるほか、カフェラウンジやコワーキングスペース、ミーティングルームの提供、多目的スタジオもあり、交流に利用できる。島民の利用は無料。ツギノバ 理事 八木橋舞子さんとあそびどころ 廣瀬諒さんに話を聞いてみた。

 八木橋さんは、以前働くカフェのオーナーの知り合いが利尻町の観光大使だった縁で、この地域おこし協力隊の仕事に誘われたそう。移住するときは下見もせずに、気軽に札幌から来てしまったとのこと。何も知らない知り合いもいない環境に身を置くのが、意外と楽しめたと聞いて、生徒たちは驚いた様子。島に住んでいる人たちがとても魅力的だとも教えてくれた。廣瀬さんは、ツギノバを借りて学び場を開催しているという。市から委託を受け数学と英語を教える塾や、やりたいことを募って自主授業をしている。卓球や料理、LINEスタンプを作ってみるなど多種多様。島内外の橋渡し役にもなっている。

 仕事をするようになったきっかけや、仕事としてこれからしたいこと、進路など、プライベートな話も含めけっこう突っ込んだ話題におよび、生徒たちも楽しんで会話をしていた。廣瀬さんは、今ある画一的な教育では、どうしても漏れてしまう人に向けた教育をいつか実現したいと思って教育の道を選んだと言っていた。LEARNのプログラムも同じ方向を向いている。「自分のやりたいことをやることで、自然とスキルもアップしていく」という言葉に、生徒たちは感銘を受けた様子。自然豊かな利尻島のツギノバでは、そういう教育がやりやすそうに感じられた。

利尻島定住移住支援センター「ツギノバ」。技術室の机と椅子を活用
黒板を活用したメッセージ
仕事についてなど、かなり突っ込んだ話題で進む。生徒の質問はよどむことなく熱心
ツギノバ 理事 八木橋舞子さん(左)、あそびどころ 廣瀬諒さん(右)に話を聞く
併設されているカフェも本格的で美味しい。大人500円、高校生以下200円
自分の考え方や将来について熱く語っていた
1日終了後に記念撮影
そろそろ日が落ちてきた

 最終日は半日あるが、夜はこの日で最後。宿泊先のホテルでは振り返る会が行なわれた。

「今回はインターネットを使わず、とにかく歩いて移動しながら、人と会話をして考えるということに徹してきた。皆が考えたことを教えてほしい」という中邑氏に応え、生徒たちは、初めて知ったこと、心を打たれたこと、驚いたことなどをおのおの挙げていった。

宿泊先ホテルで振り返る会を行なった
「今回は歩き移動しながら、人と話をして考えてきた」
「少しみんなの気づいたことを教えてほしい」
「普通列車内から見た景色や雰囲気が映画みたいでよかった。残してほしい」

 旭川~稚内の普通列車の旅だけが、どうしても意味が分からないという生徒もいた。中邑氏はこう答える。

「去年で宗谷本線が開通して100周年。その当時、函館から函館本線で長万部~小樽~札幌を経由し、旭川~稚内までつながった。急行で23時間59分かかった。ほぼ1日。あの6時間なんてたいしたことないよね。宗谷本線は廃線の危機にある。君たちがああいう旅をすることは、おそらくもうないだろう。当時、東京までの移動にどれだけかかったのか考えてみてほしい。どういう気持ちで東京に向かったか。帰ってくるのも簡単ではない。親の訃報の電報で帰ってくるのが定番だった」と聞かされ、生徒たちはそこまで考えが回らなかったようだ。

「山谷の町が栄えたのは50~60年代。あしたのジョーは70年代だね。騒動と暴動の町でもあった。そこには日本最大の交番があった。それくらい元気がよかった。東京を作ってきたのは彼ら。でももう山谷という名前も消されてしまった。今、南千住が刑場の跡地だなんて誰も気にもとめなくなった。ファミリー向けのマンションが建ってきている。いずれ普通の町になる」

 いずれも、そういった時代があったことを肌で感じてもらいたかったのだ。

東京大学 先端科学技術研究センター「個別最適な学び研究」寄付研究部門 特任助教 赤松裕美氏。「障害者という意識ではなく同じ旅人として、自分とは違う人に目を向け出会っていってほしい」と語りかけた

 今回のプログラムを主導した赤松氏は、生徒たちが「まだ、表面的にしか物を捉えられていない」と感じたようだ。

 その一例が、前編で盲目の旅人として出会った大河内さん。生徒たちは、視覚障害者という自分とは違う存在として大河内さんを捉えていた。それは大事なことだが、そこで終わってしまっている。同じ旅人として話がそれ以上進まなかった。

「視覚障害者としての大河内さんの話に留まってしまい、列車のなかであり余る時間があったのに、視覚障害のある人と話したという事実ばかりが残り、人としての大河内さんの素晴らしさに気づくことなく別れてしまったのは残念だ。同じ旅人としてなぜ会話ができなかったのか、そのことを考えてみてほしい」と、若者たちへのエールも込めて語りかけた。

 最後に、「学んでほしい、考えさせたい、なんて思ったことは一度もない。自らの自由で考えるだけだ。どう生かすのか、それで人生は大きく変わるかもしれない。その場を提供しているだけだ。君たち自身で考え、すべての人が夢を追える世の中に変えていってほしい」という言葉で中邑氏が締めくくった。

「会った人たちがみな人生を生きる覚悟を持っていた」
「自分にはめずらしくインプットができたことが貴重で楽しかった」
東京大学 先端科学技術研究センター「個別最適な学び研究」寄付研究部門 シニアリサーチフェロー 中邑賢龍氏。「自らの自由で考えるだけ。どう生かすのかも自分次第だ」

小型風力発電機の研究について小学生と考える

 最終日は、東京大学先端技術研究センター 付属エネルギー国際安全保障機構 特任准教授 工学博士 飯田誠さんを講師に迎え、利尻島に住む小学生向けに「利尻島の自然エネルギーを一緒に考えよう!」と題した講演が利尻町総合体育館 夢交流館で開催された。

 本プログラムの生徒たちは、それを見学するという形。沓形小学校と仙法志小学校から小学生17名が参加した。

 講演は、「利尻島は本土から石油や石炭を運んでこなくても、風力、水力、太陽光の電力で生活できるのだろうか」という質問から始まった。

 敷地内にある風車は定格で1kWの出力なので、島内の電力を作っているディーゼル発電機の7650kWを置き換えるには、8000基くらい必要になる。しかし、風車は止まってると発電しない。「超えなければならない壁がまだいっぱいあって、それを今研究している最中」とのこと。

 小型風力発電機の風車には、さまざまな形が研究されていて、「ここに設置されている小型風力発電機は、僕が技術の粋を集めて作った特別なモデル。ほかの風車とは違う」と、風車の羽根を生徒たちに触れてもらう。カーボン繊維を使うことで軽量で、そして音をコントロールするため表面がザラザラしている。世界最軽量の小型風力発電機「AIRDOLPHIN」だ。「さらに、この風車はネジ2本しか使われていない」と言うと、生徒も驚いていた。

 さて最初の質問だが、飯田さんは「100年後に可能になることを目指してみよう」と締めくくった。

利尻町総合体育館 夢交流館
施設には飯田さんが設計した風力発電機が設置されている
ポルシェ「911GT3」とポルシェ「タイカンGTS」の2台が駐車場で待機
会議室に利尻島の小学生が集められた
うちわのパンフレットが配られた
利尻島教育委員会 教育長 宮道信之氏があいさつ
中邑氏が小学生にLEARNについて軽く説明
東京大学先端技術研究センター 付属エネルギー国際安全保障機構 特任准教授 工学博士 飯田誠さん
LEARN with Porsche 2023の生徒たちも参加している
自然エネルギーだけでも「やればできる!」
石油からさまざまなモノが作られる。図も交えて解説
みんな真剣に聞いている
「SDGsとは」の問いにちゃんと答える
「あそこの小型風力発電機はボクが作ったモノ」
カーボン繊維でできた羽根に触れてみる。その軽さに驚く
プログラムの生徒たちも触れてみる
小型風力発電機「AIRDOLPHIN」の詳細
「僕の講義に来たら風車の地図記号は覚えてもらう」

利尻島の小学生とポルシェ

 講演のあとは、ポルシェ「911GT3」とポルシェ「タイカンGTS」の2台に、駐車場で同乗体験を行なった。駐車場は広いので、短距離ではあるが安全な場所で加速も体験する。特にEVのタイカンGTSは静かだがスタートダッシュの加速力が強烈。スポーツカーの片鱗を体験していた。

 生徒全員が参加したが、「青い方(911GT3)はだんだん加速したけど、赤いの(タイカンGTS)は声が出るほど急な加速」という感想が印象的だった。

駐車場に止まるポルシェに近づく生徒たち
初めて見るクルマに興味津々
「どちらか1台が電気自動車だ。さてどちらでしょう?」と中邑氏
「タイカンGTS」を選んだのは2名
なぜこちらを選んだかとの問いに「羽根があるから!」
「911GT3」のエンジン音が響く。「ほらガスが出てる」
「タイカンGTS」にはマフラーがない
ボンネットを開けるとエンジンがない
「え!? こっちもないよ」
ポルシェジャパン 黒岩広報部長が「911GT3」の構造を解説
ポルシェジャパン株式会社 広報部 部長 黒岩真治氏。「この911はポルシェの伝統的な後ろにエンジンを積むタイプ」
乗り込むのもドキドキ緊張
黒岩部長が電気自動車の構造を解説しつつ同乗体験
電気自動車の「タイカンGTS」はスルスルっと動きだす
「スゴイ! 空飛ぶじゅうたんだ」と興奮
駐車場は広いので少し加速も体験。EVの初期加速は強い
「911GT3」の加速力は言わずもがな
ちょっと刺激が強過ぎたかな
全生徒が順番に同乗体験
それにしても「タイカンGTS」の加速がスゴイ
飯田さんが作った小型風力発電の風車前で行なわれた

 同乗体験終了後、ポルシェジャパン広報部 黒岩部長がいることもあり、ポルシェに対する質問を受け付けた。子供が気になるのはやはりお金のこと。「どうして高いの?」という問いには、「最高の性能を出すために、最高の部品を使い、最高のエンジニアが作っている。その結果の価値」という答え。

 その証拠に、「911GT3」は高額にもかかわらず、現時点ではお金を出しても手に入れることができないほどのバックオーダーを抱える人気がある。そんなポルシェという名前は、理想のクルマを作ろうとした創業者フェルディナント・ポルシェ博士からきていると聞くと、知らなかったようで驚いていた。

体験後は質問タイム
ポルシェの名前の由来は創業者の名前
「どうして高いの」という子供たちの質問にも丁寧に答える黒岩部長

これからの未来を創ること、若者たちへの大きな期待

 その後、LEARN with Porsche 2023の生徒たちは、帰路につくため利尻空港に向かう。空港の待ち時間に、飯田さんが高校生向けに少し詳しく講義を行なった。飯田さんが風力発電に出会ったきっかけや地球温暖化、用途に応じた脱炭素戦略、カーボンリサイクルなどについて話してくれた。

 最後に「1個の結論だけじゃなくて、色んな結論を導き出してほしい。1回の課題で最低5個。どれだけ考えられるかが幅を広げていく。小さなことでいいから信じて実践してほしい」と語っていたのが、工学博士の励ます言葉として印象的だった。

利尻空港の一角を借りて集まった
飯田さんが、続編として高校生向けの講義を行なう
「今勉強しているのは狭いなかで基礎をおさえていっている段階。満足したら終わりだ」と中邑氏

 中邑氏は学生時代、日雇いアルバイトとして働いたことがあるそうだ。「でも体力的に続かず、学者にでもなれって言われ3日でクビになった。それで学者を目指した。体験すると労働者の凄さが分かる。どこにでも行って誰とでも話す。これが研究の原点になっている」

 社会はつながっていて、移動も時代によって変化する。山谷などに出稼ぎに出ていた北海道でも、冷凍設備と交通機関、インターネットの発達により、冬も仕事ができるようになって出稼ぎは減った。

「実は歴史に興味を持つようになったのは、年配になってからなんだ。若い頃は歴史なんてまったく興味なかった」と語りかける。だが、過去の失敗を繰り返さないためにも、歴史から学ぶことは多い。自分の生き方を考えるためにも、歴史の基礎知識は役にたつ。今回出会った井上円了も「不真不正の哲学は、その反対の結果をきたす」と言う。本物を見抜く眼を持ち、古典や歴史を学び、流行に流されない基軸を自分のなかに持つことがいかに重要か分かる。

「歴史を知り社会は常に動いている、ということを意識していると、もっとおもしろい研究も生まれてくるはず。正しいと信じて一番を目指すと、どうしても落ちることがある。上がったり沈んだりでピークアウトを繰り返す。落ちたときには切り捨てが起きる。この部分を見ることができるようになってほしい。やっていることの裏側を見ながら実行していくのは意味がある。切り捨てられた人は、ずっとそのまま。でも実はメインストリームにもなり得るんじゃないか、という研究をしている。そうして社会を動かしていくという流れに、君たちも少しで加わってもらえればと考えている」と、最後に教えてくれた。

 本プログラムの5日間でできることなんてたかが知れている。それでも、今回確実にそのタネはまかれた。興味を持ったところをどんどん掘り下げて行けばいい。このLEARN with Porsche 2023がきっかけとなって、広い目で動き続ける社会を見ることができる人になっていってほしいと願う。

赤松特任助教も、「ここで解散だが終わりではない。自分のなかで整理して消化してほしい」と最後に声かける
強く自分たちに向けられた言葉に真剣なまなざしになる
このプログラムの終わりに何を思うのか