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映画にもアニメにも出た「尾道・福本渡船」135年の歴史に幕。なぜ消えゆく?
2025年2月20日 06:00
歴史はなんと135年! 福本渡船と「尾道水道の3航路」
幅300mの海峡を渡り、向こうの島まで乗客を乗せて、フル回転のピストン運航。1日数百便はあるという「尾道の渡船」の一角を担ってきた福本渡船の航路が、2025年3月末をもって135年の歴史に幕を閉じる。
福本渡船の航路は、JR尾道駅に近い「士堂桟橋」から対岸の向島(むかいしま)にある「小歌島桟橋」まで、市街地と島を隔てる「尾道水道」を渡っていた。利用客は昔からきわめて多く、ラッシュ時には到着、折り返しの乗客・クルマを乗せて即座に引き返すというせわしなさは、港町・尾道の風物詩でもあった。
渡船で結ばれている尾道市向島は2005年まで御調郡向島町であり、いまも2万人以上の人々が暮らす。島の中心部とJR尾道駅エリアを隔てる海峡・尾道水道を渡る渡船は福本渡船のほかに「尾道渡船」(兼吉渡し)と「駅前渡船」の3航路があり、2016年時点で合計で1日721本、360.5往復(尾道市資料より)という、驚異の高頻度運転を行なっている。
そのなかでも福本渡船は、大林宣彦監督の映画「さびしんぼう」などに登場し、「富田靖子さんの通学シーンに登場した“あの渡船”」に遠方から乗りに来る観光客も多かったという。
そんな福本渡船は、これまでどんな人々に利用されてきたのか、なぜ自ら廃業という道を選ぶのか。まずは、現地のサラリーマンや学生に混ざって、朝ラッシュ時の渡船にふらっと乗ってみよう。
尾道水道の「選べる3航路」福本渡船の特徴とは?
尾道水道の渡船3航路のなかで、福本渡船の特徴は「通勤客とクルマ利用の多さ」「安さ」だろうか。
この航路の向島側の桟橋がある小歌島は島の中心部からは離れているものの、目の前には「向島ドック」造船工場があり、海岸線には「JFE商事造船加工」や部品工場など、造船の街・尾道を支える企業がズラッと揃う。朝の渡船利用客のなかには「自分たちで作っている船やクレーンの稼働状況を遠目にチェックしながら船通勤」という方もいるそうだ。
またクルマも、朝ラッシュ時の桟橋には数台の列ができる。2kmほど東側にある尾道大橋まで回り込めばよいようなものの、船なら300m、橋経由だと4~5kmと距離の差があり、かつ曲がりくねった道路や橋が渋滞の名所とあって移動時間が読めないため、あえて渡船に乗る人がそれなりにいるという。
かつ、福本渡船なら乗船料が「乗車料1名60円、普通車で行っても100円」と激安! とはいっても、ほかの渡船との差も20円~30円程度ではあるが、地元の方々は「福本渡船なら安い」と、一択で利用する方もいるそうだ。
なおほかの航路も、「自転車・歩行者専用でも高校生の利用が多い」「向島の中心部近くまで川を遡る」(駅前渡船)、「島の中心部の東側(兼吉地区)の足」(尾道渡船)と、それぞれに特徴を持つ。
さらに、尾道大橋の歩道が自転車1台の通過も怪しい道幅しかなく、尾道駅から向島方面のバスが少ない(島内のみの路線は多い)。また、瀬戸内の島々を自転車で巡る「しまなみサイクリング」でも渡船の利用が推奨されている。あらゆる面で、尾道市にとって渡船は幹線道路やバスと同様の重要な存在なのだ。
しかし3航路のなかでも、福本渡船は船や着岸設備などが見て分かるほどに年季が入っており、近年では「日中12時~16時休航」「日曜は完全休航」など、運航体制を縮小してでも航路を維持しようとしていた。乗り場に掲示された張り紙にも「設備老朽化のための廃止」と明記しており、航路の完全廃止は、苦悩の末の決断だったのだろう。
尾道の市街地と向島のあいだには、かつては10以上の航路がひしめき合い、いまの福本・駅前・尾道の3航路体制とは比較にならないほど、多くの渡船が行きかっていたという。現状にいたるまでの福本渡船ならび尾道水道の渡船の歩みについて振り返りつつ、なんとか生き残った3航路のなかで、福本渡船が廃業に追い込まれた背景も考えていこう。
かつては10航路以上! 尾道の渡船事情、橋の開通で激変
いまの福本渡船の実質的な創業者である福本光蔵が、「烏崎渡し」航路を開設したのは1889年(明治22年)のこと。利用者が少なく昭和初期に廃止されたが、それとは別に、今の航路の原型となる航路(小浦渡し)を1909年(明治42年)に開設、その後は尾道港の改修工事の関係で向島側の桟橋変更を余儀なくされ、いまの小歌島に移転した。
なお、いまも現存する尾道渡船「兼吉渡し」の歴史はさらに古く、寛政年間・文化年間(1789年~1817年)年ごろに航路が拓かれたという(尾道商業会議所記念館・資料より)。
明治・大正期は東京・隅田川や大阪でも「渡船といえば手漕ぎ船」であり、尾道でも手漕ぎ船からはじまり、そこから「ポンポンポン……」と音を立ててゆっくり進む焼玉エンジン、さらにディーゼルエンジンへと、船の性能を上げながら、各航路とも少しずつ進化してきた。
尾道水道では、だいたいどの航路も、対岸で「おーーーい!!」と呼ぶと船が来てくれたそうだ。1968年に尾道大橋が開通するまで、向島への移動は渡船頼みであり、それぞれの航路で激しい競争が繰り広げられていたようだ。
なかでも福本渡船とほかの航路は、昭和20年代は「他航路の値上げに福本が追随せず、乗客を奪う」「ほかが対抗して値下げ、また乗客を奪い返す」など……尾道大橋の開通によって各航路とも乗客、自動車の航走が減少するなかで、福本渡船は橋から少し離れていたこともあり、低運賃を維持したまま、なんとか生き残ってきた。
次々と押し寄せる転換点「しまなみ海道開通」「尾道大橋無料化」
しかし、尾道水道の各渡船は「新尾道大橋(しまなみ海道)開通」(1999年)、さらに「尾道大橋の無料化」(2013年)の影響を次々と受けてしまう。しまなみ海道は尾道~向島間を「休日ETC利用・130円」と、ほぼ渡船の航送と変わらない料金で移動でき、さらにこれまで有料であった尾道大橋まで完全無料化されては、各航路の経営の支えであった「クルマ利用者」が減少しないわけがない。
この時期には、生き残っていた7航路のうち「東渡し」(1997年)、「有井渡し」(2001年)、「しまなみフェリー」(2008年)が、次々と力尽きて運航を終了。全体で見ても、新尾道大橋開業から20年少々で全体の利用が半減するなど、渡船そのものの衰退が隠せない状態となるなか、「桑田渡船」(2011年)の廃止をもって、現在の福本・駅前・尾道3航路体制となる。
ここで、福本渡船の廃止の遠因ともなる事態が起きた。1984年に民営化した尾道渡船が経営の苦境に立たされ、駅前渡船も1999年に新造船を投入したあとに、桟橋の損傷によって長期休航という不運に見舞われる。双方とも経営不安に陥るなか、2021年には2社とも第三セクター「おのみち渡し船」に航路を譲渡。実質的な公営となることで、航路を存続した。
一方で、福本渡船はずっと民営のまま、ほかの航路とはライバル関係を貫いた。しかし、尾道大橋無料の影響をかなり受けてしまい、2012年には1日平均約5000人もいた利用客が平均1000人ほどまで落ち込む。加えて燃料費・人件費も高騰、船体は古いまま……この苦境を打開できず、ついに135年の歴史に幕を閉じることになった。
長らく競争原理のもとで「お得な渡し船」であり続けた福本渡船にとって、今さら公営化も値上げも受け入れ難いものだったのかもしれない。乗船するだけで、大林監督の名作映画の世界に入り込むようなひとときを過ごせた福本渡船の消滅を惜しみつつ、残された2航路に、尾道に立ち寄るたびに乗船したい。