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JAL財団、日本とインドネシアの文化交流や人材育成を促進する「JALスカラシップ」の40周年記念フォーラムを実施
インドネシアで開催。卒業生にはインドネシアの現役大臣も
(2015/11/24 09:17)
- 2015年11月23日(現地時間)実施
JAL(日本航空)およびJAL財団は11月23日(インドネシア時間)、文化・経済交流を目的とした日本からインドネシアへの人材派遣団「日インドネシア文化経済観光交流団」のイベントの一環として、「人材交流が拓く インドネシアと日本の未来 ~JALスカラシップ40周年記念フォーラム~」をジャカルタ市内で実施した。
日インドネシア文化経済観光交流団は、日本旅行業協会や日本経済団体連合会、日本政府観光局らで組織される日インドネシア文化経済観交流団実行委員会により、1000名以上の日本人がインドネシアを訪問し、観光、経済両面から交流を図っているもの。
JAL財団は、航空文明社会における地球規模の人材育成や交流、社会発展推進のための調査・研究などを目的に設立された公益財団法人。1975年に、当時日本航空がアジア・オセアニア地域の大学生を対象に、1975年に創設した「JALスカラシッププログラム」も、JAL財団が引き継いでいる。
JALスカラシッププログラムでは、毎年アジア・オセアニア地域の大学生を日本に招待。将来の地域を担う若者の育成を目的に、日本での研修や文化交流を通じて日本への理解や、日本と自国との相互理解を深めてもらう活動を行なってきた。2015年は6月29日~7月21日に石川県や東京都をめぐるコースで実施されている。これまでに1538名の海外学生を日本に迎え、インドネシアからは約1割に相当する148名が参加している。
このJALスカラシッププログラムが創設から40周年を迎えたことを記念し、日インドネシア文化経済観光交流団のジャカルタ訪問に合わせてフォーラムが開催された。司会はJAL取締役会長でJAL財団の理事長も務める大西賢氏。同氏は冒頭で上記のようなJALスカラシップの取り組みやフォーラムの主旨を説明したあと、「このフォーラムをきっかけにし、古き、そして長き友人であるインドネシアと日本の人材交流が今後ますます活性化し、相互理解がますます進むことを主催者として願っている」と挨拶。引き続いて、“JALスカラシップの歩み”をビデオ上映した。
ちなみに、このフォーラムには当初、インドネシア海洋担当調整大臣を務めるリザル・ラムリ氏と、インドネシア教育・文化大臣 アニス・バスウェダン氏が出席する予定となっていた。両名はそれぞれ第1期、第20期のJALスカラシッププログラムの卒業生。公務のため参加を取りやめると冒頭でアナウンスされたが、フォーラム中に電話でメッセージを寄せる“サプライズ”があり、それぞれがJALスカラシッププログラムでの経験などを紹介した。
リザル・ラムリ氏は「日本は豊かで感動した。インドネシアは食べ物はたくさんあったが、国民に食べさせることはできていなかった。大きな違いは教育。日本はすべての子供に教育させることを大事にする。インドネシアは当時、教育を大事にしていなかった。そのあと、インドネシアでも日本のように義務教育を開始した。私はこの人材交流で目を開くことができた。今後JALのスカラシップに参加する人にも、私のような日本からの経験を得られるよう期待している」とコメント。
アニス・バスウェダン氏は「私はJALのスカラシップに参加して、ただのジャワ(インドネシア)の国民から国際人になれた。いろいろな国の違いも分かるようになって、相互理解を感じることができた。これからもインドネシアの学生達の多くをこのプログラムに参加させていただき、未来の世代も、国際的な世界のメンバーとして、国の文化や社会のいろいろな面を紹介させていただきたい。スカラシップの訪問先の家族に自国の習慣や文化などを紹介するのも大きなチャレンジ。文化を広めるのは自分の国にいてはできず、外国に行くことで広げることができる。そして、自分の国の文化を学ぶだけでなく、異なる文化を学ぶという経験が、将来の仕事のためにも学生として必要なこと。どうかこのプログラムを今後も続けてほしい」と、両名とも自身の経験を踏まえて、JALスカラシッププログラムの有用性と、その継続に期待を示した。
続いて、パナソニック・マニュファクチュアリング・インドネシア 取締役社長 菅沼一郎氏が、日本とインドネシアの交流事例として、同社のインドネシアでの55年の歴史と、インドネシア社会に向き合ってきた活動の一端を紹介した。
同社は1957年にコロンボ・プランで日本を訪問したモハマド・ゴーベル氏が、パナソニック創業者の松下幸之助氏に会い、意気投合したことからスタートした。当時のスカルノ大統領には“広い国土のインドネシアで、国の隅々の国民に自らの声で直接語りかけたい”との思いがあり、それを受けてゴーベル氏は感度のよいトランジスタラジオの提携先を探し始めた。松下氏とゴーベル氏は“インドネシアに産業を興す”という使命を共有し、1960年に技術提携を締結。1962年に、第2回東南アジア・スポーツ大会がジャカルタで行なわれるのを機に、国産第1号の白黒TVの販売を開始した。このような創業時の精神は、1979年に松下幸之助氏がポケットマネーから100万ドルを供出して設立した「松下・ゴーベル教育財団」と「教育訓練センター」で、“物を作る前に人を作る”の精神で、現在も人材育成、人材交流に受け継がれているという。
こうした事業の根幹を成すフィロソフィとして、“水道のように安価で豊富に商品を提供する”という松下氏の「水道哲学」、“バナナのように実、葉、茎、根のすべてが人々の役に立つ、そんな商品を社会に届ける”というゴーベル氏の「バナナ哲学」が挙げられ、この精神に基づいてインドネシアで取り組んできた人材交流の事例を5つの観点で紹介した。
1つは「教育」の観点で、1998年から始めた世界各地の小学生にニュースフィルムを作る疑似職業体験を通じて撮影機材の扱いやチームでの共同作業などを行なってもらう「キッドウィットネスニュース」や、自然の大切さを学ぶなどして環境意識を高めてもらう「エコラーニング・プログラム」、過去10年間で203校、1万名を受け入れたという工場見学などを実施。一方で、ジャカルタ日本人学校の中学2年生を対象に、エアコンの分解や組み立て、販売会社でのアイデア出しや販売の実地体験をしてもらうなど日系コミュニティとの関係を重視している点も紹介した。
また、2000年からはインドネシアの大学生、大学院生に奨学金を授与。これまでにインドネシア大学の2名などインドネシア国内で8名の教授、東京大学でも1名の教授を輩出しているという。
続いて挙げた「スポーツ」の観点では、2011年に第26回東南アジア・スポーツ大会でメインスポンサーをして以来、スポーツをとおしてスポーツマンシップと健全な精神の育成をインドネシア社会に訴えるべく活動。2013年の大相撲ジャカルタ場所への協賛、ゴルフのパナソニック・オープン・インドネシアの開催、サッカーのU-14大会への協賛、Jリーグチームのガンバ大阪をジャカルタへ招聘するなどの活動を行なっている。
「環境・エコ・グリーン活動」の観点では、この10年でインドネシアでも環境に対する意識が大きく変わってきているといい、パナソニックの工場でも環境対策を実施しているほか、野菜工場やエコ・ファクトリー、スマートシティといった最新の取り組みを、さまざまなイベントに出展して情報発信。WHO(世界保健機構)や気候変動プログラムのジャカルタサミットなど、国際機関が開くフォーラムには、インドネシアを代表する地場企業として参加しているという。
2004年のアチェを震源とする地震や津波、2006年のジョグ・ジャカルタ地震、2009年の西スマトラ・パダン沖地震、2013年のジャカルタ大洪水など、インドネシアは大きな自然災害にたびたび遭遇していることから「災害支援」の観点でも取り組みを実施。
同社では懐中電灯や乾電池、ラジオなどを常備して緊急事態に備え、インドネシア赤十字とも連携して素早い対応をとれる体制を構築。工場内にはソーラー(太陽光)で自家発電するライフイノベーションコンテナを2両常備しており、災害地での緊急の電力需要に備えている。さらに、インドネシア政府やNGOとの連携パイプや人的交流により、2011年の東日本大震災時には、ジャカルタの工場から8トンの乾電池を48時間で東北3県に運ぶための、特別な段取りが可能になったという。
最後に挙げられたのは「文化・生活」の観点で、同社にとってインドネシアにおけるもっとも長い活動が、国際交流基金が1972年に始めた「日本語弁論大会」の放映を第1回から43年間続けていることであると紹介。インドネシアは87万人が日本語を学び、世界でも3番目に日本語学習者が多い国になっているといい、この活動は今後も続けていかなければならないと考えているとした。また、1997年から始めたパナソニック・ゴーベル・アワードは、アジア通貨危機でTV業界に元気がなくなるなか、民間のTV局の元気を取り戻し、番組をよりよくする目的で創設された。
このほか、独自の井戸ポンプにより綺麗な水を提供する活動や、ソーラーパネルと蓄電池によるパワーサプライコンテナによる電化活動などを紹介。2015年にバンドン地区の非電化地域の小学校で、学校設立32年目にして初めて電気を使った授業を行ない、264名の小学生が目を輝かせていたという。
電気関係では、パナソニックが2018年に会社創業100周年を迎えるのに合わせ、全世界の非電化地域へソーラーランタンを100万寄付する活動を全社的に行なっており、インドネシアでもこの2年間で2010個、2018年までに5000個のソーラーランタンを農村部に広く届けたいとしている。
ジャワ島の中部地域では、農民支援の取り組みを進めている。これは農民の自立を支援する取り組みで、インドネシア国内でパナソニック製ラジオが1台売れるたびに売り上げから2ドルを積み立て、コーヒーの苗木を購入。農民とともにそれを植えてコーヒー農園を作り、収入を安定させ、よりよい生計を立ててもらうこと目標としたものとなる。これまでに1万3000本の苗木を植え、10数件の農家による協同組合も作られ、品評会で好成績を収めるほどの品質を実現。今後はブランドの確立も目指している。
このほか、2014年からジャワ島中部にある世界遺産「プランバナン遺跡群」のLEDによるライトアップの取り組みを紹介。プラチナ、ゴールド、シルバーの3色で世界遺産の美しさを引き立たせ、レストランや舞踏劇場の背景となることで地域住民の生活向上に寄与しているという。毎週火・木・土の18時から見られるので、ぜひ訪れてほしいと呼びかけた。
菅沼氏は「55年の月日が流れたが、私達はインドネシア社会と人々への感謝を忘れず、地域への還元を引き続き実現していきたいと願っている。これら1つ1つの活動は常に日本人とインドネシア人の交流や共同作業がベースとなっている。今後も事業が続く限り続けたい」とコメントして講演を結んだ。
続いて、日本、インドネシア両国の学生によるスピーチが行なわれた。日本からは神田外語大学の川名勇摩氏、稲垣楓香氏、インドネシアからは劇団en塾のTasya Annisa氏、Nova Seputra氏が参加。
川名氏と稲垣氏は、インドネシアの人達が日本の文化を愛していることを知ったとき、自身がインドネシアの文化を知らないことに気づいたことが、インドネシア語学習の道に進んだきっかけであったという。大学入学前にはインドネシア語はまったく話せなかったというが、神田外語大学にある「ムルク」というパン・パシフィック地域の7カ国の伝統的な家をイメージした教育環境で学べたことが言語習得に寄与したことを紹介。また、交換留学生としてインドネシアを訪れ、日本もインドネシアについて知る機会を増やす必要性を感じたといい、そうした理解が日本とインドネシアの関係性をより強くし、日本人にとっても価値あるものになるのではないかと考えているとした。
インドネシアから参加したAnnisa氏、Seputra氏は、日本語を学習するインドネシア人学生で結成している「劇団en塾」に参加。en塾では日本語でミュージカルなどを公演することを通じ、日本語や日本文化に肌で触れるだけでなく、日本の要人や日系の企業と接点を持つこともできる。また、3つの規律があり、こうしたことを通じて信頼や礼儀の大切さなどを学んだという。
そして、東日本大震災の折に、日本語を学ぶインドネシア人学生が日本のために作った曲「桜よ ~大好きな日本へ~」を合唱。日本への愛を感じる歌詞に、合唱を聴いて涙ぐむ参加者の姿も見られた。
その後、JALスカラシッププログラムの卒業生や、来賓として参加した衆議院議員 衆議院文部科学委員長 福井照氏の挨拶が行なわれた。福井氏は感動を述べるとともに、アジア人の手話は、首長が人々の幸せに満足する姿を模して、顎に手を当てて「幸せ」を表わすという“うんちく”披露して、自分だけでなく国民や村民の幸せを自身の幸せと感じることがアジア人の文化であると紹介。また、「“カイゼン”は生産性を上げるために無駄を排除すべく日本の工場で努力されていることだが、複雑な数学をやっている人が研究した結果、その極意はすべての人間を活かしきること、すべての人間を活かしきってこそ無駄を取れる」と述べていたことを紹介。これを日本とインドネシアの生き様であるし、さらに日本がインドネシアの生き様を真っ正面から見つめ直すことで、日本人にも勉強になるのではないかとした。
本フォーラムのあと取材に応じたJAL財団 理事長の大西氏は、JALスカラシッププログラムで訪問する都市について、本プログラムに地方創生の意味も持たせており、地方と東京の2カ所をめぐる行程にしていると紹介。最近5年ほどは石川県と東京という組み合わせになっているが、以前は釜石市などへも行っていた。こうした地方が選定される点については、受け入れノウハウの有無が大きいという。
また、JALスカラシッププログラムでは外国人学生の来日に合わせて、交流を行なう日本人学生も募集している。この学生同士は、国の違いがないかのようにすぐに打ち解けると言う。あまり海外へ出て行かないと言われる日本人学生に対して、「一歩外に出れば分かるのに」との思いを吐露した。