荒木麻美のパリ生活
フランスで人工妊娠中絶を合法化した女性政治家、シモーヌ・ヴェイユの展覧会へ
2021年9月18日 08:00
日本ではほとんど知られていないと思いますが、シモーヌ・ヴェイユというフランスの女性政治家がいました。2017年6月30日、89歳で亡くなったシモーヌですが、今年の5月から8月まで、彼女の展覧会がパリ市役所で開催されていたので行ってきました。
建物内に入ると、シモーヌのドラマチックな生涯が簡潔に分かるような内容となっています。
1927年7月13日、シモーヌはニースでユダヤ系の家に生まれます。シモーヌが16歳になったとき、一家はナチス・ドイツの強制収容所に送られ、両親と兄は亡くなり、シモーヌと姉だけが生還。レジスタンス運動に参加していたもう一人の姉も生還します。
1945年に強制収容所を出たあと、シモーヌはフランス屈指のグランゼコール(高等職業教育機関)であるパリ政治学院で法学を学び、在学中に出会ったアントワーヌ・ヴェイユと1946年に結婚。3人の子をもうけます。
アントワーヌはシモーヌがパリ政治学院で学び続けることに反対だったようですが、シモーヌはそれを押し切って卒業、司法官となります。アントワーヌも当初こそ妻に家にいてほしいと言いましたが、自身が2013年に亡くなるまで、生涯にわたってシモーヌを献身的にサポートすることになります。
1974年、シモーヌはヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領時代に保健相になります。女性が大臣に就くのはこれが初めてのことでした。そしてシモーヌ・ヴェイユは人工妊娠中絶の合法化法案を国民議会で発表します。当時のフランスでは中絶は禁止されていたため、望まぬ出産や危険な闇中絶が行なわれていたからです。しかし当時の女性議員は少数、保守派議員を中心に大反対を受けます。
強制収容所からの生還者であるシモーヌに対し、「この法案はアウシュヴィッツと同等の犯罪である!」と暴言を吐く者もいました。それでもシモーヌは決してあきらめず、1975年、妊娠中絶を合法化する通称「ヴェイユ法」が可決します。カトリック信者の多いフランスでは画期的なことでした。ちなみに日本で中絶が合法化されたのは1948年です。
なおこれに先立ち、1971年に「Manifeste des 343 salopes」(ふしだらな女343人のマニフェスト)という、中絶の合法化を求める請願書が出されています。シモーヌ・ド・ボーヴォワール、カトリーヌ・ドヌーヴ、マルグリット・デュラス、フランソワーズ・サガン、アニエス・ヴァルダ、ジャンヌ・モローといった、そうそうたる女性著名人たちが名を連ねています。
その後シモーヌは欧州議会の直接選挙制によって選ばれた初めての議長となり、憲法評議会メンバーなども歴任、2008年にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれています。アカデミー・フランセーズ会員に与えられる佩剣(はいけん)には、シモーヌが収容所で腕に彫られた番号「78651」も刻まれています。
ユダヤ人大量虐殺に関して、フランス人犠牲者に捧げられたショア記念館がパリのマレ地区にあります。シモーヌはこの記念館の創設メンバーになっており、2001年から2007年までは館長を務めています。
2017年にシモーヌが亡くなったとき、彼女をフランスの偉人を祀る墓所・パンテオンに埋葬すべきだという声が多く上がります。これを受け、翌年7月にパリ市内のアンバリッドで国葬が行なわれ、2013年に亡くなった夫とともに合祀されました。
現在ここに眠る偉人は80名。女性ではマリ―・キュリーらに次いで5人目となりました。なお今年の11月には、81人目、女性としては6人目となる、レジスタンスや反人種差別運動に身を投じたエンターテイナー、ジョセフィン・ベーカーが入る予定です。
フランスの女性解放運動の流れのなか、シモーヌが戦中のつらい体験を通して培った不屈の精神と、アントワーヌという最高の伴侶のおかげで今のフランス人女性の地位があることは、フランスの移民である私にとっても大変意味のあることです。ぼんやりとしか知らなかったシモーヌ・ヴェイユのことについてもっと知ることのできた、とてもよい展覧会でした。