荒木麻美のパリ生活

6点法の点字を発明した神童。ルイ・ブライユの生まれたクヴレ村を訪ねる

博物館となっているブライユの生家

 世界中いたるところで見かける点字。点字をフランス語でブライユ(Braille)というのですが、今回はその点字を作った人、ルイ・ブライユ(Louis Braille)のお話です。

 ブライユは、フランスのクヴレ村で1809年に生まれました。ブライユの生家は現在博物館になっており、点字についてもっと知りたいと訪ねてきました。

 クヴレ村まではパリから電車とバスを東に乗り継いで、1時間ほどのところにあります。とても静かなところで、博物館にも人気はなく、私が行った日も見学者は私1人だけでした。見学はガイド付きなのですが、1人なのを幸いにじっくりと話を聞いてきました。

ブライユ家の食堂兼両親の寝室
ブライユ

 1812年、当時3歳だったブライユは、馬具職人だった父親のアトリエで遊んでいたところ、過って自分で片方の目を千枚通しで刺して失明してしまいます。しかもその後、もう片方の目にも交感性眼炎という炎症が起こり、5歳で両目を失明してしまいます。

父親の馬具を作るアトリエ。ここでブライユは片目を失明します

 当時、ブライユのような障害のある子供が教育を受けることは難しかったそう。でも幸いなことに比較的裕福な家庭だったこともあり、ブライユの両親は失明した息子にきちんとした教育を受けさせようとします。父親は木片に釘を打ちつけ、ブライユは釘の頭を指先で触りながら文字を覚えたといいます。

ブライユが触って文字を学んだ木片

 その後もブライユの聡明さを見出した村の神父やそのほかの援助者の協力により、ブライユは村の学校に通い、1819年、10歳のときには世界で初めての盲学校である、パリの国立盲学校に入学します。

当時のパリの国立盲学校

 ここの生徒たちの間で使われていたのが、浮き出し加工された文字をなぞって読み取る方法です。しかし、この盛り上がった文字は、読むのも書くのも大変なものでした。

 ブライユが12歳となった1821年には、シャルル・バルビエ(Charles Barbier)が軍事用として考案した文字「ソノグラフィー」が盲学校に導入されます。12の点と線を使ったこの文字は、浮き出し文字に比べれば格段によいものでしたが、まだまだ読むのも書くのも複雑でした。

 そこでブライユはもっと使いやすい方式に改良しようとします。実験と研究を重ね、6個の点から構成される点字方式を考案しました。1825年、16歳のときのことです。しかもこれなら数学や楽譜も表現できるという優れ物。4年後の1829年には、この点字方式の解説書を正式に発表しました。

1838年にブライユが著した算数の本
ブライユが使った点字盤
ガイドさんが実際に点字を打ってくれました
点字の各国語
もちろん日本語も
楽譜もあります。ブライユは素晴らしいパイプオルガン奏者でもあったとか
点字を打ったり、文字を書いたりするための装置いろいろ
目の見えない人用のゲーム
目の見えない人用の触る画集

 国立盲学校卒業後も教員として学校に残ったブライユは、さらに改良を加え、1837年にブライユ点字を完成させます。

 若いころから神童ぶりを発揮したブライユですが、残念なことに1852年、肺結核により43歳で亡くなってしまいます。盲学校は不衛生で暗く湿気の多いところだったために、これが結核になった原因と言われています。

 その後、フランスでブライユ点字が正式に採用されたのは、彼が亡くなってから2年後、1854年のことでした。

生家の庭。色や香り、触感などを刺激する「五感庭園」と名付けられており、春から秋にかけて美しくなることでしょう

 死後百年にあたる1952年には、ブライユの遺骸は故郷のクヴレ村からパリの国民的英雄を祀るパンテオンに葬られます。また2000年には、世界盲人連合によりブライユの生まれた1月4日は世界点字デーとなりました。

ブライユのもともとの墓。のちに腕「以外」がパンテオンに埋葬されました
村の中心部にはブライユの銅像が
荒木麻美

東京での出版社勤務などを経て、2003年よりパリ在住。2011年にNaturopathie(自然療法)の専門学校に入学、2015年に卒業。パリでNaturopathe(自然療法士)として働いています。Webサイトはhttp://mami.naturo.free.fr/